今年の夏の終わりに

どうしたってふと考えてしまう。彼のことを。暫く表舞台に現れないだろう。生活そのものが音楽を聴き音楽を作ることだろうから、変わらずに篭って制作を続ける日々だろうか。今年30周年だとファンの間で話題になっていた3rdは言わば「墓掘りの音楽」であり、彼自身が墓掘りに土を被されてしまうとは皮肉な話だ。

記憶は補正され都合よく妄想が加味されることを前提に、蛇足に過ぎないことを文字にして吐き出さないと落ち着かないから、日々書き足し消しながら、留めることにする。

当時読んだだろうに既に心が離れていたからか嫌悪抹消欲求なのか、読後感の記憶が無い。都合よく忘れてしまうって恐ろしいとはいえ、音楽を聴くにあたって当人の情報ってどうでも良いから深く考えなかったのだと思う。音を聴いて自分がどう感じるか否かで充分でしょう。

あの雑誌なんて、インタビュアーが人生の先輩スタンスでミュージシャンの過去や悩みを聞き、「我々はこんなことも語らせちゃうんですよ」とセンセーショナルな言葉があればよいのだろうし、彼がその辺の思惑を現場でどう考えていたかはわからないけれど当時サブカルチャー側が悪を取り上げる傾向(思い出したのは「悪童日記」*邦訳刊行91年 以降の流れ。悪さ=ヤンキーではない語り口)はあったはずで、トレンドセッター的な彼はその匂いを引っ張るだろうし、「リヴァーズ・エッジ」の山田くんの描かれ方が良くも悪くも何かの起因になったのではないか。 konichiwanippon -渋谷系年表-


当時の彼周辺の音楽は、旧来然な人たちの一部に疎まれていたと田舎で読んでいた雑誌越しに感じていた。私はどっちも好きだったから何故対立するのだろうと思っていた。あのインタビューは「オシャレ気取りの鼻持ちならないボクチャンは実は俺らと同じ穴のムジナのどうしようもない奴だったんのだ!ってのを、我々は引き出したんですよ!」って奴に過ぎないし、「ふにゃモラとかオシャレ言われてる僕はこんな奴なんすよ、へへ」とばかりな「求められてる俺」トークで邪鬼に溢れた振る舞いやビジュアルワークを見せるようになり、APEの広告塔になってるのは嫌だった。小枝のCMとか。「面白いでしょ?」って半笑いの感じの。ソロ以降はあの界隈がビジネスチャンス!って沸き立ってるムードを使ってやるって感じで、遊びに遊んで過剰を重ねていた印象がある。恐らくは言葉で伝えることよりも「見せる」こと、コーディネートが得意な彼だもの。


だからこそその後2001年、方向転換をした4thは衝撃的だったのだ。若き日々のあれこれが、結婚し子供も生まれた影響ゆえか、post rock以後の流れゆえか、音作りが刷新された。それ以降フィールドが広がった。そして2017年、ジャケットワークだけでこれまでにないフェーズだと伝えていることがわかった。「(父親が亡くなり親戚との交流が増えたことで)自分は突然ポッと生まれ落ちたわけじゃないと気付かされた」と当時語っていたけれど、40代はこれまでと違う活動が増え、実生活でも変化があり、歳を重ねたからこその気づきがあったのだ。


若い頃は「マスメディアを使って遊んでやる」意識はあったはずで、でもそれらは情報消費に過ぎず、彼は「わかる人にはわかる」からいいやと思っていただろう。しかしマスメディアに残った記録で足元を簡単に掬われてしまうのだ、第三者によって、何十年も後に。
生活=音楽である彼が今後作り出す新しい音を聴くことが出来る日を、私は楽しみに待っている。


と、ここまでを書き留めたのは8月上旬だっただろうか。

8月30日 レギュラー出演していたラジオ番組がそっと降板されたことを知る。過去の雑誌記事を用いて一方的な視点で書かれたブログを正式情報として、社会自体がジャッジするなんて民主主義国家と思えない。確かに彼が10代の頃に取った行動と言動、そしてプロミュージシャンとしてネタにしたことは愚かであるし、今回のプロジェクトの要請を受けたことは浅はかだったと言わざるを得ない。しかしこの20年来共に活動をする映像作家やスタッフとの絡みもあっただろう。
それにしても、客観的な視点で実際の状況を精査したうえで基準に則って処置判断をするのではなく、「炎上」が怖くて手を引くというのは正常な社会ではない。かつて不倫騒ぎでテレビから一時消えた芸能人がいた。CM契約を何本も持っている「人気商売」だけにスポンサーが契約解除することはわかるし、彼の場合もCMなど企業が絡んでいる仕事も多々あるからそれに関しては落ち着くまで停止させられることは理解できる。しかし新譜が発売直前で出荷停止になり、ラジオ番組が降板させられる「社会的制裁」のジャッジの線引きは、明らかにおかしい。
罪を犯したのならば法律に基づいて刑を受ける、ここには罪を犯した人と刑を命じる人に責任の所在がきちんとある。しかし今回は「目に見えない」妬み嫉み退屈しのぎがスマホで流れた情報だけで親指一つでジャッジしたわけで、責任も落とし所もないのだ。


今朝、applemusicのシャッフルで「その部屋にはわたしはいない」と歌う曲が流れて悲しくなった。肌寒く曇天の空。夏休みはとっくに終わり、今外は戦場なのかもしれない。

ドライブ・マイ・カー

観賞後つらつら思うことが止まらず、書き留めないといられないところに濱口竜介監督作の恐ろしさがある。前置きが長々と続くほどに語りながらも褒めてはいません。内容に言及しているので、鑑賞前の方はご注意を。






濱口竜介監督作には素直に飲み込めない骨がある。映画の文法に則りながら新しい形を作らんとする意志に目を見張るけれど、人物像を男/女で分けて人柄と役割を付けてしまうことに苛立ちを感じてしまう。なので「ハッピーアワー」は恐ろし過ぎて見ていない。「女性ってこうでしょう?」と決めつける基準は、“シネフィル“な映画鑑賞で培った固定概念ではないだろうか。今作は村上春樹原作で流石にトゥーマッチ過ぎるのではと半ば震えたものの、西島秀俊岡田将生出演と石橋英子 音楽に、いい方向に転ぶかも?と思いつつ3時間か……と二の足を踏んでいたところ、後押ししたのはこのインタビューだ。

西島「『ジョン・カサヴェテスは語る』『シネマトグラフ覚書 映画監督のノート』という本がありますが、濱口監督が読んでいらっしゃったんです。『西島さんは読みましたか?』と聞かれたんですが『僕はもう封印しました。もう読むことはないと思う』と答えました。でも、濱口監督は『読んでください』と。そう言われて十数年ぶりに奥底から引っ張り出したんですが、やっぱり素晴らしいんですよね。『カサヴェテス2000』を経て、20年ぶりに色々なことができたことが、僕にとっては本当に大きなことなんです。(本作への参加を契機に)昔はやろうとしてもできなかったこと、自分の好きな演技を、他の仕事でもチャレンジしてみようと思えるようになりました。求められていない場所でも、何か表現ができるのかもしれない――これは、僕のなかでは“既に始まったこと”です」
西島秀俊、濱口竜介監督との対話で封印を解く カンヌ4冠「ドライブ・マイ・カー」を語る : 映画ニュース - 映画.com


一時期は「名画座へ行けば西島さんがいた」のに、カサベテス祭後に「シネフィルな部分を封印」し方向転換したことで、お茶の間で躍進したと想像すると腑に落ちる。頭で演じるのではなくまずは体作りから、で変貌したマッスルな姿と台詞回しが合わないなあとずっと気になっていた。どんな役柄でも良くも悪くも西島秀俊だった。
濱口メソッドな棒読みと西島さんの声色が同期するのは容易に想像できた。「SELF AND OTHERS」「眠り姫」での彼岸の声の響きを思い出す。そして今作、予想通りピタッとハマっていた。車内で台詞を繰り返すシーンは棺桶の中で黄泉と交信するようで、「私の好きな2000年代前半までの西島さんが帰ってきた・・・!」と興奮した。


昨年の「風の電話」は諏訪監督作!に喜びながらも状況的に観に行く気になれず、思えば映画で西島さんを見るのは2008年公開「東南角部屋二階の女」以来だった。今西島さんが演じるのは「地位のある中年男性」であることに、今更ながら歳を痛感する。対峙する若き俳優を演じるのがこれまた大好きな岡田将生なことも嬉しくて、西島さんと共鳴する彼の声のトーンも素晴らしかった。「リーガル・ハイ」「昭和元禄落語心中」を経た語り口で、深みに落ちきらない濱口メソッドで演じていた。(車内のシーンが絶賛されているけれど「昭和元禄落語心中」あってこそだよなあ)



さて。ここからようやく、本作の言及に入る。


序盤早々「(私の嫌いなやつ)出たー!!!」とげんなりしたものの、ドライバーのみさきにホッとした。妻の反語としての存在ではあるけれど、単純にこういう人が私は好きなのだ。
リハーサル場面に入るとグッと面白くなった。リベットのように演劇を入れることで登場人物の心中を描く手法は、旧作よりもハマっていた。更に他言語、手話まで取り入れることに驚きつつ、巧いな(そして狡いな)と思えた。中盤の公園での読み合わせシーンの、空気と光を含んだ場面を私は忘れないだろう。まさに魔法がそこにあった。「親密さ」に満ちる若さゆえの青さを思い出すと、今作で芳醇で豊かな時間が織り込まれているのは、監督の経験が反映されているからだろう。
そして石橋英子さんの劇伴は、「音は空気を震わせて響くのだ」ということを実感させてくれた。感情を増幅し過剰に盛り立てることは決してない。そのシーンに生じた空気をスッと汲み取って響く音楽だった。
更に谷口吉生設計 広島市清掃工場が登場、見たかった建築なので心の中で叫んだ。台詞で語られた設計意図はストーリーと絡みあう。 広島の建築 arch-hiroshima|広島市環境局中工場 広島ロケといっても観光映画的側面は一切ない。主人公は後部座席でもまるで風景を見ないのだから。しかし後半、「何処かへ」と走り出すと変わる景色に彼の心中の動きが被さっていく。


私の中の数値がどんどん上がっていき、あの街へ辿り着いた瞬間の「無音」に息が止まった。


これよこれ!とお腹の底から震えてきて、これまでの諸々回収を思い出しつつ、コメリに立ち寄る場面も挟む配慮たるや! この映画はすごいところへ来た!と興奮したのに。


直後からのシーンで一気に萎え、ラストシーンに興醒めした。結局ソレかーーーーーー・・・
あの「無音」で終わっていれば私は大絶賛しただろう。


現時点で、男性を描く場合にリアリティを持ってできたのが、「弱さを認める」ということでした。いま、「弱さ」でしか男を描けないーー村上春樹原作でカンヌ脚本賞受賞の濱口竜介監督が語る(熊野 雅恵) | FRaU

1978年生まれの濱口監督は昨今話題の問題も積極的に捉え、制作現場ではかなり配慮したようだけど、作品の描き方となると旧来のままなことにジレンマを感じる。意識を高く持っているならば、価値基準や概念をアップデートした「この先」を現時点で描き、世の中に提示するべきではないだろうか。だから村上春樹原作を映画化している場合ではない。
男が喪失した自信を回復するにあたり、導くために存在するのが女、という最終的な位置付けにがっかりした。どうして現実でも舞台上でも、自分よりずっと年下の女性と抱き合い言葉を交わすことで解放されるのか。あの場なら号泣したいのはドライバーのほうだろう。
ドライバーのプロフェッショナルな働きぶりで気づくのではない。若き俳優は彼に嫉妬や老いを感じさせるのではなく、優越性を確立させる着火素材に過ぎない。男は権威ある地位にいて、対する女性は格下でありトラウマを抱えているテンプレートにうんざりするし、ちゃっかりした後日談で終わらせたことにも困惑する。彼は固執したものを手放すことが出来たのだろうけど。
また、言葉に頼った部分が多すぎた。濱口脚本は印象的な言葉が多く用いられるものの、ラストの説明台詞の畳み掛けには疑問点が残った。「ワーニャ伯父さん」の台詞の絡ませ方は巧みだけど、字幕で表示されるために観客にとってはわかりやすくなるのは意図的だろうから、狡いなあとも言える。


もはや若手気鋭監督ではない立ち位置になった次回作を待ち望みたいと思う。映画の「構造」としては見事で、これまで試してきた手法が極まった作品。だけど、と後味の悪さが残り、こうやってだらだらと書き留めないと解放できないのだ。