鈴木理策「意識の流れ」

前回の大規模な個展は東京都写真美術館だったけれど、閉館中のこともあってか今回は初台オペラシティにて。こちらの天井が高く白い空間のほうが作品にあっていると感じられた。白に溶けこむような空間がそこにあった。

鈴木理策さんの写真を見ると、すぐ「きれいだ」と単純な気持ちが浮かばない。ピントがひとつに定まっていない写真を前にして、心の表面が揺らぎ、記憶の底を彷徨う想いに囚われてしまう。そして自分の中と外の景色が重なりあうのだ。
ここで鑑賞側が行なうのは「見る」だけではなく「観る/視る/診る」ではないだろうかと思い至り、タイトルの「意識の流れ」に結びつく。撮影側は「写す」だけではなく「映す/撮す/移す」、そのどれもを意識的に行なっているのではないかと考える。だからこその展示内容であるし、撮影OKなのも鑑賞の更なる導きとなる。

そう、驚くべきことに場内はカメラやスマホで撮影OKなのだった。何故敢えてそうしたのか。金曜の夜でそれほどには混んでいないなか、みなさんだいたい数カ所で撮る感じ。鑑賞側はどんな想いを契機にしどういう意図でどの作品を撮るのか、そこにも意識の流れが存在するし、「見た」ときとは異なる流れがそこにあるはずだ。撮った画像をネット上にあげてもらったら、人気投票が出来るかも。「好き」と思った作品を撮るのだろうけれど、画像として表れるのは目が見た写真と全く同じものにはならない。作品の複製ではなく、行動や気持ちの記録が表れるのだ。

映像作品もあり、覗きこんだら撮影直前のガシャガシャとブレる動きのある場面で、心がかき乱されている様そのものでグッときた。そこからじわりと焦点が絞られていき桜のある風景に至る流れは、脳味噌と心の連動のようだった。

特製の陳列台に納められた作品もあった。陳列台は床面が写るほどにピカピカで、その見た目から受けるイメージと中の写真から受けるイメージが異なるのも興味深かった。鈴木理策さんのオーダーであのかたちや素材になったのかな。歩けば目に映るのではなく、わざわざ覗き込まないと目に映らないことにも意志を感じる。
また「白い」作品を前にすると、通常作品鑑賞には前提としての意識のコントロールが働いていることを痛感する。


瞬間的に目が見る世界は主観でとらえている世界であり、それが世界そのものではない。現物の世界と写真に写る世界には違いがあるのか。写真を撮ると高性能なカメラを使わない限りは案外見たそのものにはならない。人間の視覚能力って凄いなーと思うけれど、眼球がとらえたものを視覚がそのままとらえているのだろうか。更に情報伝達能力と感情伝達能力それぞれで異なる視点がある。写真家は何を撮るのか、カメラは何を写すのかなどとウンウン考えていたら、アンドレアス・グルスキーの写真を思い出した。鈴木理策の写真とは、映画でいえば二本立てのような感じで、通じるものがあるのではないだろうか。森美術館や現代美術館のようないくつもハコがある場所は集客の関係上、それぞれ全く違うジャンルの作品展を行いがちだけど、館全体をキュレーションして「二本立て」を行なってもよいのにな。

最後に、私が今回1枚撮影したのはこれ。

白い壁を撮ったはずなのにこんなものに。作品や空間ではなく、敢えて壁を撮ったところが私のこの展示に対する「記録」と「意志」なのだ。
そして今回場内を見て歩いたことは私にとっての散策と等しかった。