「パターソン」を思い出しながらあれこれ。

久々に晴れた朝、今日は人間ドックだった。血圧が初めて上100を超えたし、呼吸機能検査「息を吸って吸って吸って、ハイ一気に吐いてーーーーー」は1度で終わったし、炭酸粉末+バリウム飲用はツラくなかったし、ぐるぐる廻るとき左右間違えたのは1回だけだったし、マンモグラフィは痛くなかったし、この歳でも成長するんだな(違う)! にしても、老若男女おなじ診察服来て、おなじ台詞を伝えられながら工場生産のように次々と回る様が、毎年面白い。あのオジサンは会社ではえらそーにしてるのかなあとか想像したりする。昼前に終わり、カレーを食べ、モンブランを食べ、住宅街をずっと歩いて帰宅。スーパーの農家直送コーナーで目についた茄子を買う。トンダ・ビアンカという名で、白丸ナスともいうらしい。白みがかった薄紫色の、どっしりと丸みを帯びた美しい茄子。厚切りにてじっくりソテーして食べるつもり。


このところどんなときでも不意に思い出すのは、映画「パターソン」で見たアダム・ドライバーのまなざしだ。
宣伝用ビジュアルの状況で始まる冒頭に、こんなイチャイチャなふたりの生活を映すお話なのかなと思っていたら、主人公パターソンにグッと近づいたアップの表情が入り込んだ。彼のまなざしは空虚で諦念に満ちていて、ゾクッとした。それはこの映画は”そういうお話ですよ”と知らせるサインだった。妻が甲斐甲斐しく尽くし、愛犬を散歩し、バスの運転手として働くパターソンの日々を淡々とクスッとした笑みを交えて描いたストーリーだけど、そこには圧倒的なひとりぼっち感があって、今の生活に至る「前提」が随所に感じられた。夫婦の仲睦まじい会話のあいだには薄い膜があるのが印象的だったし、何気ない日々には不穏なひっかかりが小石のように転がっていた。そんな想いを抱えながらたどり着いたラストの、諦念と同居する不思議な清々しさったら。滲みるような、解放されるような。ああ! 双子や幾何学模様などの”記号”は「詩」となって紡がれつつ、人々が暮らす街の「風景」と絡み合い、ジャームッシュ自身のバンドに拠る「音楽」が空気を作り、サラッとしているようで物凄く練り込まれた「映画」になっていて、軽妙と成熟と老成が行き着いた達観があった。ジャームッシュ64歳。(今読み返すと、老成は言い過ぎた。ごめんジャームッシュ。)(でも基本「パーマネント・バケーション」のときと変わらないんだよな、螺旋でぐるぐる彷徨いながら削ぎ落とし醸されているような感じ)


もう一度見たいけど、小さなスクリーンで宝物を広げるような場でひっそりと見たい。そう考えると、やっぱり映画興行っていろんな意味でスゴイと思わされる。「見たい」という気持ちは必ず叶うわけではない。「見たい作品」がまず日本で配給されるかがあり、地域で上映するか否か、そして上映期間と時刻で可能範囲が狭まり、そこに漸く自分の都合でジャッジが入る。物理的な都合もあれば、気分の問題もある。更に最近は上映するといっても、テナントビルにむりやりはめこまれたスクリーンや、直前にならないと公開されないスケジュールや期間限定公開に観客側が振り回されてしまう。様々な行動が「気軽に/自分の好きなときに」をテーマに展開される今の時代に於いては、映画鑑賞はとても贅沢な嗜好品に思えてくる。だから面白いのだろうけどもね。