「寝ても覚めても」「きみの鳥はうたえる」「贋作 桜の森の満開の下」

少し前の日。平成30年の傑作として刻まれるであろう3作品をハシゴ見した一日だった。強烈で濃厚ですんなり消化されることを拒むような作品ばかりを同じ日に見たわけだけど、どういうわけだか自然と吸収された。

(以下、シーンに触れますので未見のかたはご注意ください)





寝ても覚めても
何を問われてもクールに返答出来るほどの、監督の揺るぎない信念が感じられた。思うことは幾つもあり、幾つものシーンが脳内に焼き付いて解れない。それほどの強度に満ちあふれていた。冒頭の、あまりに”映画的な”一連の流れからの「そんなこと、あるかーーい!」という壮絶なセルフツッコミに驚いたし、「親密さ」を見たときにも感じた小劇団への違和感に対してもセルフツッコミされたことにも驚いた。序盤でこのつくりなので、このあとの展開や細部に対する違和感を挙げたとしても、監督には徹頭徹尾準備周到なのだなと思えた。
ともあれ。朝子の行動は当然「理解できない」と言われるだろうけど、麦や亮平を始め、他の登場人物だって同じじゃないだろか?男女関係なく、人間の本能や思い込みは、これまでの日々のなにげない積み重ねをいとも簡単に破壊してしまう。その点においては災害や病気と同様であることまで、ちゃんと忍ばせているのだ。その提示の仕方こそ暴力的な気がして、素直に受け入れられないけれど。
それにしてもED曲にtofubeatsをセレクトすることに、監督との世代差(自分よりも年下)を感じる。瀬田なつき監督の蓮沼執太セレクトと同様な感覚の差。


きみの鳥はうたえる
武蔵野館にて。「playback」は頭デッカチで感情が伴っていなく感じたけれど、「無言日記」には血肉が感じられて高揚し、「cockpit」は楽しかった。監督としてのそんな歳月が反映されてるからかなんなのか、”彼らが笑う” ただそれだけで涙が出た。目に映り脳と心が捉えた映像を、どう納め繋げていくか。胸をかきむしられる。佐藤泰志原作映画は「海炭市叙景」が苦手で、こういう内容の映画ならヤダなーと以降2作は未見なのだけど、三宅監督は原作のエッセンスを抽出し、頭に詰まったものと心に詰まったものが同期し作品として昇華したことが素晴らしい。「playback」公開後、boidの樋口さんがWEBマガジン用に制作を勧めたのが、「iPhoneで日記を撮ること」でそれが「無言日記」になったのだけど、今作を見ると樋口さんの目利き力ってさすが凄いなあとつくづく思う。

>もともと僕らはその「特別なもの」を持っている。普段はそれを発見出来ていないだけで、「もともとそこにある」と思います。
https://swamppost.com/enta/eiga/2361/

鑑賞して感じたことに合点がいった。素晴らしいインタビュー。


濱口監督も三宅監督も、映画をたくさん見た結果としての「映画論」が好きなんだなと思えるのだけど、映画論在りきの方向性の違いが面白い。



「贋作 桜の森の満開の下
東京芸術劇場 プレイハウスにて。野田地図、初観劇。TVで放送されたものしか見たことがなかった。そしてよくチケ取れた!2階席の真ん中で、全体を見渡せた。シフォンのようなやわらかい布やピンクのリボンの使い方が効果的で、劇ならではの時空間の表現が見事だった。そして劇というのは役者・美術などすべての関係者が一体で作り上げるチームワークな芸術表現であることを実感する。そして深津絵里さんの声色!邪気で無邪気。ふわふわと跳ねたり翻る。初演では毬谷友子さんだったことを知り、納得。恐らくは妖艶だったであろうけれど、深津さんは凛とした様があった。
気になった点としては、ステージまで遠いせいか台詞が若干聞き取りづらく、ただでさえ難しそうな話がよけい掴めなかったのと、コミカルな台詞の古さ。初演ではもっと毒々しくでろりとした内容な気がするけど、良くも悪くも今の時代に合わせた商業舞台な面もあり、精神性云々までの深いものを受けることが出来ないのは、自分の知性不足に依るのだろうな。せめて1階席で見たほうが生々しく受け取れるではなかろうか、もう一度見たらどうだろうか等等、、、舞台沼は、げに恐ろしき。