今年の音甘映画館 【小屋のなかで】

小出さんは表舞台で語らないと思い込んでいたから、昨年のB&Bでのトークショーを経て、今年の状況には驚いた。いろんなかたちで発信出来る今の時代だからこそかもしれない。牧村さん同様、この人がいたからこそなんだよという存在。

たった5年間を綴っただけなのに濃厚で、その前を受け止めながら、そのとき今に感じて動いたことが、その後に続いているってことがよく分かる。”ミニコミ”と銘打っていることが嬉しい。ミニコミ、ファンジン、そういう名称が大事なのだ。「好きだ!」って気持ち、「ファンだ!」って気持ち、ただそれだけ。なのに!あれだけのものをつくって発信していく、その行動力たるや。

好きという気持ちの表し方にもいろいろあるんだなあと自分を振り返る。小出さんのようにライブ会場やビデオ上映会などで仲間を作って広げて続けていくこと、それが出来るのも能力だ。小出さん自身が魅力的で周りを受け入れることが出来る人柄だからこそ、だろう。独占欲を他者と共有出来る強さと広さ。スレてなくてまっすぐで。
「私はこれが好き!」がここまでの存在になるのは簡単なことではない。自分の「好き」は自分だけで得たものではなくて「周りに還元すること」、その気持ちが当時からあったから小さくとも深く大きなシーンになったのだ。だからプライベートが落ち着いた今、「若い人たちにもこの楽しさは伝えたい」と思うのだろう。

自分はというと、諸々の能力の無さ、とりわけコミュニケーション能力の無さを痛感してしまう。私もかつて文通したり、雑誌に投稿したり、アンケートを募ってコピー誌をつくったりしたことがある。しかし悲しいかな、自分の好き!だけじゃいられないことに戸惑い、自分と他者との違いを面白がることが出来なかった。

自伝的な読み物で不思議なのは、何故こんなに覚えているんだろうってことで、記憶の根っこを成長させ、幹に枝葉を付けて綴る力だ。何らかを残すほどの活動をしたからこそ、備わる力なのだろう。熱意は心身脳内に刻まれるのだなあ。米国音楽以後、恐らくは蓋をしていたであろうけれど、昨年聞きに行ったトークショウが”書き留めておこう”と思われたキッカケだそう。

小出さんの「あのころ」を読むと、私にはいろんな意味で「手の届かない」ことを思う。小出さんにとってのthe JAMのように「間に合わなかった」と感じずにはいられない。だから、綴ってくださってありがとうございましたと感謝する。それこそ「いだてん」のように、誰かが次へ繋げていくことを思う。


今年は「あのころ」を振り返る音楽関連の書籍がいくつも出版された。遠いおとぎ話のようであっても、発見の連続で勇気づけられたり、自分の断片を思わせられたりした。振り返る時代になったといえるのだろうけれど、決して語らない人もいるのだから、そこは受け手側が考えていないと、歴史に偏りが出てしまうよねーとも思う。とはいえ、こういう書籍が出ることすら奇跡的な昨今で、制作してくださったことに感謝します。
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例えば風景。建て替えられたことで記憶の中の風景が変わって驚くけれど、いつしかその風景が当たり前になってその街の印象をつくりだす。いま見ている風景もそうなのだな。今はそのあいまにいる。いろんなことがその繰り返しだ。私自身も体や心が弱っていって、それが当たり前になるのだろう。ヒシヒシと迫ってくるものを感じる。それを受け入れたうえで、このさきのために今の私を作っていくこと。街にはたくさんの人がいて、たくさんの物事があり、日々生み出される。その中のひとつが私だということ。見えるものも聞こえるものも、見えないものも聞こえないものも、たくさんある。押しつぶされそうになるけれど。


日が暮れようとしている。オレンジ色に微かに染まる空が見えて、Y氏がカーテンを閉めた。
2019年が終わる。2020年が始まる。そのあいまに今、いる。
この文章を目に留めてもらうのが「いつ」かはわからないけれど、今年も時折、この小屋へわざわざ訪れてくださってありがとうございました。また来年も散歩の途中で立ち寄ってもらえれば嬉しいです。
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