国境の南

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その喫茶店のことは随分前から知っていたものの、足を踏み入れることを躊躇していた。油彩画家である店主が描いた作品が飾られていることが恐らくの理由だった。自分の幼稚さを突きつけられることが怖かった。ところがある日、ふと、行ってみようと思った。どういう気持ちの変化かはわからない。扉を開けると小さな店内は驚くほど穏やかで、スッとした感覚を私は忘れないだろう。クラシックのピアノ曲が密やかに流れる中、渡されたメニューは鉛筆書きの秘密メモのようで、珈琲の品書きから「国境の南」という魅惑的な名前のブレンドを選んだ。ネルで淹れられた深煎の豆は柔らかな薫りと苦味が広がり、からだのなかを巡った。窓に映る暗闇をぼーっと眺めた。画集や芸術理論の書籍が棚に並んでいた。なににも邪魔されない、ちいさな独立国家のような店内の一面の壁は、青を基調としたアブストラクトな油彩が描かれていて、自由な想像力に満ちていた。ああ、これまでの私の情けないプライドを悔やんでしまう。その店は1ヶ月後に閉店した。