20世紀のポスター[図像と文字の風景] ――ビジュアルコミュニケーションは可能か?

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東京都庭園美術館で開催中の本展は私の好みど真ん中なので、単純に「カッコいい〜〜」以上。でいいんだけど、それだけではない学びがあった。図録のテキストが充実していて、判型含めて観賞後の読み物として素晴らしいので反芻し図録から引用しつつ、記録したい。因みに展示物は竹尾コレクションなだけに、図録奥付には使用用紙が記載されている。



ポスターとは「広告・宣伝のために掲示する大形のビラや貼り紙(広辞苑)」であり、要は「伝えるもの」だ。「伝える力」というのは一方的ではダメで、受け手側あってこそだ。受け手側は瞬時に反応したとしても、その結果は大抵すぐにはわからないし、見た瞬間の反応と結果がイコールになるとは限らない。広告宣伝がビジネスになればなるほど、作り手はどうしたら省力で高い結果を生み出せるかを考えるようになり、双方のバランスを失っているのが昨今のメディアと云える。


「ポスターは、あくまでもその時代を生きる人々の目にさらされ、その目を惹きつけることを使命として生まれる。(中略) 美術館でポスターを見るということは、その意味においての時代の記録を見るということである」 (P14)


ポスターを「コミュニケーション・メディア」だとするならば、その時代のコミュニケーション能力をそのまま表しているわけで、ひとたび街へ出れば目に付くあれやこれやに戸惑いを感じることが多くなったというのはどういうことかと思わざるを得ないのだ。



好きだなーと思う作家を挙げると、まずはヨゼフ・ミューラー=ブロックマン。1940年代後半から60年代にかけて隆盛したスイス派で活動した。グリッドと文字と色構成のシンプルさが美しい。
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「情報の送り手と受け手の間に結ばれる、対等かつ民主的な関係性を望んだ。」 (P22)

確かに送り手側の色眼鏡や民衆への擦り寄りが無く、信頼しているからこそ、このようなデザインを送り出せるのでは。


続くパートでは、マックス・ビルの作品がとにかく好みで!ymjさんにライブ告知でパクって 引用してほしい秀逸でクールなデザイン! スイス出身でバウハウスで学び、1953年に西ドイツでウルム造形大学を開校した初代学長とのこと。彼の教え子の作品もこれまた好みのものばかり。こういう継承って素晴らしいなあ。
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スイス派、ウルム派を中心とした「インターナショナル・スタイル」は第二次世界大戦後から60年代にかけて幅広く用いられたものの、その結果、
「普及すればするほどに当初の清新さを失っていった。(中略)清新さを失えば、もはやポスターとしての使命は果たせない」 (P152)
と言われると、ポスターというものの難しさを痛感する。


その後68年頃から活動を始めたウォルフガング・ワインガルトがスイス・スタイルを踏襲しつつ、実験的な取り組みをするのだけど、75-84年頃の作品群が「ああ!なんてニューウェイヴなレコなの!」なデザインで痺れるのですよ。さっきまでとは違う痺れ方。“スイス・パンク・タイポグラフィ“と呼称されるとはナルホド・・・。
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そして74年〜のウィリィ・クンツの静謐なデザインには、なんだかヴィム・ヴェンダースを思い出すのですよ。
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そして4ADですか?!と言いたくなるデザインが出てきて、あああとなってる私にトドメを刺したのはジョルジュ・カムッツォバーチャル・メストレ 1993」ですよ・・・。ポスタータイトルでお察しください・・・なんだけど、黄色地のカラフルな構成で、エミグレなフォントで、SimCity なんて書かれたらもう……もう……。ああ、コレももう歴史なんだね・・・と私の中の90年代初頭が号泣したのであった。参照画像に使えるものが見つからないのがまた時代……。そしてこれ以降はDTPに移行して、現場が大きく変化するのだなあ・・・(遠い目)



今、街中に氾濫するポスターはもちろん、オリムピック関連のビジュアルには「2020年代の日本」が映し出されているのだなと思うと、暗澹たる思いになる。一方的な暴力性すら感じさせる、これが今の私たちのコミュニケーション能力なのだな。後年、美術館で展示される作品なんてあるのかしら。



≪ 引用元 ≫ 佐賀一郎(多摩美術大学)| 本展図録「20世紀のポスター[図像と文字の風景] ――ビジュアルコミュニケーションは可能か?」