30年目の「ヘッド博士の世界塔」

今日はフリッパーズ・ギター「ヘッド博士の世界塔」発売から30年とのこと。
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私の高校生活3年間はフリッパーズギターの活動3年間そのものだった。
高1の1989年 8月。フールズメイトの裏表紙にあった1stの広告に惹かれて近所の○○堂に行ったら、棚に1枚だけ入荷してたことが始まり。近所に出来た喫茶店のお兄さんに借りたETBGからラフトレードものを聴くようになった状況とリンクした。

高2の1990年は「予備校ブギ」の主題歌に落胆しながらも、「カメラトーク」のキラキラさは憧れそのもので、バイト先のCDレコードレンタル店で彼らが影響された音楽を聴きまくり、FM横浜を受信できないことに涙しながらも(代わりにNHK FMでの布袋寅泰の番組を聞いて音楽収集した)宝島の「フリキュラマシーン」を楽しみにし、BEAT UKを見ていた。こんなことばっかりしてたから勉強全然してなくて、数学の小テストが怖くてミスドでサボってばかりいたら落第の危機を迎え、補習を受けてナントカ進級した。

高3の1991年7月最初の金曜日。明日から文化祭だったので教室に暗幕を付けていたところ、登っていた台から落下して湿布を貼った。次の日の文化祭初日はサボって、ソフトバレエの東京3DAYS初日の新宿 厚生年金会館へ行ったのだった。流石にライブを見るためだけに東京へ行ったことは無い(許してもらえるわけない)のに、「文化祭当日を利用できるのでは?」という若さゆえのオソロシイ無謀な行動。(この流れでソフトバレエが登場するのが「音甘映画館」なんだけど、当日他に違うバンド(特に海外勢)のライブがあったら、そちらに行ったかもしれない。何故ならばソフトバレエは地元にツアーで来たので見たことがあるから)流石にCDを買う余裕(懐も心も)は無かったのだろう、行ったはずのHMVとかの記憶は無い。でも7月7日だったから、渋谷パルコのアフタヌーンティーで「七夕のデザート」を食べた記憶はある。食い気……。この無謀さでフリッパーズのライブも見たかったよ・・・。
日曜日は文化祭にちゃんと出て、文芸部で売り子したり、放送部でキャンプファイアーのPAもどきをやった。ライディーンで踊ったりするんだぜ、1991年に。時間が止まったままで恥ずかしいなあと盛り上がる人々と炎を見てたよね。

そしていよいよ7月10日。
前日火曜が入荷日と知っていたけど○○堂は定休日なので、水曜日発売当日の学校帰りに買いに行った。そして金曜に痛めた右足がまだ痛いので病院に寄ったところ、「骨折してます、即入院してください」と告げられて親に電話。そのまま1週間入院することになった。
落下した翌日は東京を歩き回り(厚生年金会館の階段を足ひきづって登った記憶は何故かある)、その後数日間は確かに痛かったけど自転車乗ったり変わらない生活をしてれば、悪化するわね……。ディスクマンも無く、愛用のドデカホーンは大きすぎるので持ち込めず、買ったばかりの「ヘッド博士」は聴けないまま、枕元に置いてあった。“飛び出すよフリッパーズ“3Dメガネで遊んだり歌詞カードを読んだりはしたのかなあ。覚えていない。ぼくたちはなんだか忘れてしまうね(それは岡崎京子


退院して漸く聴くことが出来たわけだけど、文化祭終了とともに本格化する受験生の夏の1週間を休み、夏期講習も通えず(後半は流石に行ったはず)、ただでさえ行ける大学もないのにどーすんだと暗澹たる気持ちに「ヘッド博士」はハマってしまった。これまでとは違う雰囲気に満ちた曲の数々に痺れた。今にして思えば「どん詰まり感」がリンクしたのかも。
ギブスを外し、夏が終わり秋が来て、漸く勉強を始め「来年は東京でフリッパーズのライブを見る!」ことをモチベーションにしていた私が、10月末の朝刊社会面の下の広告スペースに掲載された「フリッパーズギター 解散によるライブ中止のお知らせ」を目にした時の愕然っぷりは、想像していただけることでしょう・・・

こんな状態のままなんとか合格して上京に至った奇跡はさておき、「ヘッド博士の世界塔」は91年の私そのものであり、捕らえられたまま出てこれずに思い出話を語り続けるのだ。