ドライブ・マイ・カー

観賞後つらつら思うことが止まらず、書き留めないといられないところに濱口竜介監督作の恐ろしさがある。前置きが長々と続くほどに語りながらも褒めてはいません。内容に言及しているので、鑑賞前の方はご注意を。






濱口竜介監督作には素直に飲み込めない骨がある。映画の文法に則りながら新しい形を作らんとする意志に目を見張るけれど、人物像を男/女で分けて人柄と役割を付けてしまうことに苛立ちを感じてしまう。なので「ハッピーアワー」は恐ろし過ぎて見ていない。「女性ってこうでしょう?」と決めつける基準は、“シネフィル“な映画鑑賞で培った固定概念ではないだろうか。今作は村上春樹原作で流石にトゥーマッチ過ぎるのではと半ば震えたものの、西島秀俊岡田将生出演と石橋英子 音楽に、いい方向に転ぶかも?と思いつつ3時間か……と二の足を踏んでいたところ、後押ししたのはこのインタビューだ。

西島「『ジョン・カサヴェテスは語る』『シネマトグラフ覚書 映画監督のノート』という本がありますが、濱口監督が読んでいらっしゃったんです。『西島さんは読みましたか?』と聞かれたんですが『僕はもう封印しました。もう読むことはないと思う』と答えました。でも、濱口監督は『読んでください』と。そう言われて十数年ぶりに奥底から引っ張り出したんですが、やっぱり素晴らしいんですよね。『カサヴェテス2000』を経て、20年ぶりに色々なことができたことが、僕にとっては本当に大きなことなんです。(本作への参加を契機に)昔はやろうとしてもできなかったこと、自分の好きな演技を、他の仕事でもチャレンジしてみようと思えるようになりました。求められていない場所でも、何か表現ができるのかもしれない――これは、僕のなかでは“既に始まったこと”です」
西島秀俊、濱口竜介監督との対話で封印を解く カンヌ4冠「ドライブ・マイ・カー」を語る : 映画ニュース - 映画.com


一時期は「名画座へ行けば西島さんがいた」のに、カサベテス祭後に「シネフィルな部分を封印」し方向転換したことで、お茶の間で躍進したと想像すると腑に落ちる。頭で演じるのではなくまずは体作りから、で変貌したマッスルな姿と台詞回しが合わないなあとずっと気になっていた。どんな役柄でも良くも悪くも西島秀俊だった。
濱口メソッドな棒読みと西島さんの声色が同期するのは容易に想像できた。「SELF AND OTHERS」「眠り姫」での彼岸の声の響きを思い出す。そして今作、予想通りピタッとハマっていた。車内で台詞を繰り返すシーンは棺桶の中で黄泉と交信するようで、「私の好きな2000年代前半までの西島さんが帰ってきた・・・!」と興奮した。


昨年の「風の電話」は諏訪監督作!に喜びながらも状況的に観に行く気になれず、思えば映画で西島さんを見るのは2008年公開「東南角部屋二階の女」以来だった。今西島さんが演じるのは「地位のある中年男性」であることに、今更ながら歳を痛感する。対峙する若き俳優を演じるのがこれまた大好きな岡田将生なことも嬉しくて、西島さんと共鳴する彼の声のトーンも素晴らしかった。「リーガル・ハイ」「昭和元禄落語心中」を経た語り口で、深みに落ちきらない濱口メソッドで演じていた。(車内のシーンが絶賛されているけれど「昭和元禄落語心中」あってこそだよなあ)



さて。ここからようやく、本作の言及に入る。


序盤早々「(私の嫌いなやつ)出たー!!!」とげんなりしたものの、ドライバーのみさきにホッとした。妻の反語としての存在ではあるけれど、単純にこういう人が私は好きなのだ。
リハーサル場面に入るとグッと面白くなった。リベットのように演劇を入れることで登場人物の心中を描く手法は、旧作よりもハマっていた。更に他言語、手話まで取り入れることに驚きつつ、巧いな(そして狡いな)と思えた。中盤の公園での読み合わせシーンの、空気と光を含んだ場面を私は忘れないだろう。まさに魔法がそこにあった。「親密さ」に満ちる若さゆえの青さを思い出すと、今作で芳醇で豊かな時間が織り込まれているのは、監督の経験が反映されているからだろう。
そして石橋英子さんの劇伴は、「音は空気を震わせて響くのだ」ということを実感させてくれた。感情を増幅し過剰に盛り立てることは決してない。そのシーンに生じた空気をスッと汲み取って響く音楽だった。
更に谷口吉生設計 広島市清掃工場が登場、見たかった建築なので心の中で叫んだ。台詞で語られた設計意図はストーリーと絡みあう。 広島の建築 arch-hiroshima|広島市環境局中工場 広島ロケといっても観光映画的側面は一切ない。主人公は後部座席でもまるで風景を見ないのだから。しかし後半、「何処かへ」と走り出すと変わる景色に彼の心中の動きが被さっていく。


私の中の数値がどんどん上がっていき、あの街へ辿り着いた瞬間の「無音」に息が止まった。


これよこれ!とお腹の底から震えてきて、これまでの諸々回収を思い出しつつ、コメリに立ち寄る場面も挟む配慮たるや! この映画はすごいところへ来た!と興奮したのに。


直後からのシーンで一気に萎え、ラストシーンに興醒めした。結局ソレかーーーーーー・・・
あの「無音」で終わっていれば私は大絶賛しただろう。


現時点で、男性を描く場合にリアリティを持ってできたのが、「弱さを認める」ということでした。いま、「弱さ」でしか男を描けないーー村上春樹原作でカンヌ脚本賞受賞の濱口竜介監督が語る(熊野 雅恵) | FRaU

1978年生まれの濱口監督は昨今話題の問題も積極的に捉え、制作現場ではかなり配慮したようだけど、作品の描き方となると旧来のままなことにジレンマを感じる。意識を高く持っているならば、価値基準や概念をアップデートした「この先」を現時点で描き、世の中に提示するべきではないだろうか。だから村上春樹原作を映画化している場合ではない。
男が喪失した自信を回復するにあたり、導くために存在するのが女、という最終的な位置付けにがっかりした。どうして現実でも舞台上でも、自分よりずっと年下の女性と抱き合い言葉を交わすことで解放されるのか。あの場なら号泣したいのはドライバーのほうだろう。
ドライバーのプロフェッショナルな働きぶりで気づくのではない。若き俳優は彼に嫉妬や老いを感じさせるのではなく、優越性を確立させる着火素材に過ぎない。男は権威ある地位にいて、対する女性は格下でありトラウマを抱えているテンプレートにうんざりするし、ちゃっかりした後日談で終わらせたことにも困惑する。彼は固執したものを手放すことが出来たのだろうけど。
また、言葉に頼った部分が多すぎた。濱口脚本は印象的な言葉が多く用いられるものの、ラストの説明台詞の畳み掛けには疑問点が残った。「ワーニャ伯父さん」の台詞の絡ませ方は巧みだけど、字幕で表示されるために観客にとってはわかりやすくなるのは意図的だろうから、狡いなあとも言える。


もはや若手気鋭監督ではない立ち位置になった次回作を待ち望みたいと思う。映画の「構造」としては見事で、これまで試してきた手法が極まった作品。だけど、と後味の悪さが残り、こうやってだらだらと書き留めないと解放できないのだ。