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第1部/白井晟一クロニクル は昨年鑑賞し、図面や写真で彼の仕事を辿りました。
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第2部/Back to 1981 建物公開 へ訪問。展示物は無く、白井さんが設計した建物そのものを辿る企画は昨今のモダニズム建築再考の流れゆえのものでしょうか。
白井晟一の名と作品を認識したときに、あれか!と結びついたのは飯倉交差点のノアビルで、街と街の間のピンポイントな交差点にスッと屹立する建物の異様な雰囲気。まさに彼の名刺代わり。
数年前は秋田の横手興生病院、群馬の旧松井田町役場を見に行きましたが
mikk.hatenadiary.jp
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それにしても「現存しない」建物の多さよ。
今下記にて継承される方を募集中なので、だ、誰か・・・
外から見ると拒んでいるような閉じた印象は「ザ・白井晟一」だけど、敷地の狭さと松濤という高級住宅街を考慮したこともあるかもしれない。外壁は花崗岩で、当初国産の石を使用する予定が、白井氏が自ら韓国から輸入した石を「紅雲石」と名づけて使用すると急遽言い出し、渋谷区側と大いに揉めた顛末があったそう。
エントランスの受付天井はなんとオニキスを使用していた。今まで全然意識してなかったよ…
通常は閉鎖している扉が開放され、吹き抜けのブリッジを渡れた!ブリッジの頭上の青い空が美しかった。
■第一展示室
展示のときは作品を守るために暗くするけれど、実は噴水ある吹き抜けからの光を感じさせるつくりだった。婉曲の空間も美術館らしからぬ形であり、白井氏は「美術館」という用途をどの程度考えていたのだろうか。
階段も美しい。
■2階 第二展示室
ソファがあり、寛ぎのある空間はリビングのよう。座っている方がいたので写真は控えましたが、鎮座する大きなレザーソファーはスイス製、ガラステーブルはイタリア製。仄かに灯るスタンドライトにタペストリー、一般的な美術館の調度品らしからぬものから、1階展示室の椅子、館内のフレーム鏡や照明グローブなど、すべて白井氏が選んだものだそう。また、この部屋の額装された書も白井氏の手によるもの。
前川國男など椅子なども併せてデザインする建築家は多いけれど、白井氏は自らが設計した空間に合う(置くべき)調度品を鋭い審美眼で見つけてくる。今のようにネットで探せるわけはなく、これまでの経験を踏まえて。40年を経て、見事に馴染んでいて公共空間とは思えない「私だけの」部屋になっていることがすごい。これは建築時の了承(すったもんだはあったにせよ)にしろ、これまでの維持管理にしろ、渋谷区の関係者の働きかけあってこそだろう。
コンクリートと思い込んでいた壁材はヴェルヴェット張りだった!触ってみると確かに。柱の木材はブラジリアン・ローズウッドだったり、コダワリやさん……。
普段は開放されている収納式扉が半開に。美しいなあ。
どこを切り取っても絵になる・・・
エンブレムまで細かい。中公文庫のマークは白井氏デザインという話も納得。
公共の美術館に高額費用を使うとは何事か!と今のご時世ならばクレームを付けられ、そのお言葉に配慮しなければならないだろう。予算をどんどん削られ、数多の無理難題をこなさなければならないお仕事が現在の建築家なのかもしれない。だからこそ調整役に長けた隈研吾一択になっていく。
全方位に配慮したハコだけが作られれば良いのか。維持管理は当然かかる。しかしそれだけの費用が掛かっても良いと思わせる愛情と敬意をその建物に抱けるだろうか。50年後はあっさり解体できるように敢えて作ってるのか、今なら長寿命化が考慮されてるだろうし、どう考えられているのだろう。
「私の全力をだし切ったはじめての作品」ーーーー 街の一角にある美術館は人々にどのような存在であるべきか。白井晟一の未来を見据えた眼差しが詰まった、自身曰く「最高傑作」。尖っているのに穏やかな、経年しつつ経年しない不思議な空間は白井晟一という特異な建築家の美意識そのものだ。それを大切に守り、使い続け、「白井晟一“入門“」と名づけた美術館学芸員さんのセンスと愛情こそが素晴らしい展覧会だった。