今年の音甘映画館

今年は私にとって大きな出来事があったけれど、誰にでも訪れることであり、それにより新たに始まることもあるのだ。
何歳になっても元気に暮らしたいと身に沁みた。ゴダールのように自らFINをつけることも出来ないのだ。


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緒川たまきさんのこの記事が心に響き、「私の生活改善運動 vol.4」を読んだことが水面化で後押ししたからか、夏の終わりに理学療法士による"歩き方教室"に通うようになった。最初に立ち方・歩き方をチェックしてもらい「これは特殊ですね…」と言われるほどだったものの、「私に合った」ストレッチや軽い運動を教えていただき、毎晩の日課になり、時折チェック&指南されてこの4ヶ月、確かに改善されてきた。思いっきり前に傾いた立ち姿に「サルかマイケル・ジャクソン
ゼロ・グラヴィティ - Wikipedia か」とY氏に言われ続けた姿勢が一般人になった!久しぶりに一緒に電車乗って横並びしたときに「背が伸びた!」と言われて嬉しかった。運動を一切しない人生で脂肪とむくみでぶよぶよだった足に筋肉が付き、硬くなったことが嬉しくて足をついつい触ってしまう、体育会系の学生が自分の胸筋をよく触っている気持ちがわかった。筋肉は裏切らない(笑  長年培った癖は一朝一夕に直るわけがなく、行くたびに新たな指摘が入り「まともなヒト」になる日は遠いけれど、何歳になっても散歩を楽しく続けたいし新宿ユニオンの6階までタッタカ階段で歩いて行きたいので、無理なく続けていきたい。



それと美容院を変えた。今までのところは「若者向け」と認めたからこそ、小さな変化。ともあれ定期的に通う場所だからこそ、今の自分にあった店を選ぶべきなのよね。



映画はめっきり行かなくなったけれど、テレビドラマを家でY氏と観ることが楽しかった。大河ドラマ「13人の鎌倉殿」は1年通しでやるからこその作品だった。「石子と羽男」「初恋の悪魔」もドラマだからこその作品であり、素晴らしかった。



今年も街がどんどん変わっていく。渋谷駅前も新宿駅前も、大きな街から小さな住宅街まで。

・しかし都市のパブリック・スペースとはその場所、規模、性格のいかんに関わらず、独りの人間にとって、時に安らぎを、また時に感動を与えるものでありたいという願望は常に存在し続けているという認識を放棄してはならない。
・本来、パブリック・スペースとは人を集め、流す道具立てだけではないはずである。つくる側の、設計する側の、そしてそれを利用する人びとのこうした現象に対する批判能力が停止した時、われわれの都市から「優しさ」が次第に消失していくのではないだろうか。 独りのためのパブリックスペース | 新建築オンライン 槇文彦氏『新建築』2008年1月号 寄稿文


ひとりでいることを良しとされた、静かなあの頃が既に懐かしい。意識して耳を澄ます。スタンドアローンで私は私の好きなものを好きであり続ける。自分で自分の機嫌を取れるようになりたい。30年後に光に溢れた姿で生きていたい。この1年の日々のなかで浮かんだ夢や希望を携えて、来年に向かって歩いていく。ピンとした姿勢で体がブレず刻むリズムは昨日より明日、そのまた明日とキレが良くなっているのだ。


今年もわざわざこの「音甘映画館」を訪れてくださり、ありがとうございました。

今年の音甘映画館 【館編】

ギャラリーや美術館もこまめに足を運んだ。というよりも散策の途中で立ち寄った。だから「展示作品そのもの」の良さだけでなく、「会場」「その前後の道のり」もとても重要で、でもそれこそが大切なのではないか。「展覧会」のために作品を作る作家はいない。日々の中でこそ生まれるものだから。その日々のあいだに入らせていただき、作品を観ることに出会いがあるのだ。


河合浩「forgotten times」(Open Letter)
世田谷美術館コレクション展「ART / MUSIC」
港千尋「Across The Waters」(IWAO GALLERY)
古谷葵「小さな縁側で」(GALLERY TK2)
李禹煥国立新美術館)
川内倫子「M/E」(オペラシティ アートギャラリー)
中里斉「painting outside part1」(MEM)
「線と言葉・楠本まきの仕事展」(弥生美術館)
ジョアンナ・タガダ・ホフベック 「Dreaming About Tomorrow」(nidigallery)
サンティ・アレルッツォ( SIDE 2)

松濤美術館の建物自体をつかった「白井晟一入門」も素晴らしかった。感謝します。これをきっかけに美術館などの公共建築物が作品として捉えてもらえればいいなと思う。