岡崎京子展

2月最初の火曜日、Y氏と合わせて会社お休みして、芦花公園世田谷文学館へ向かった。岡崎京子展をひとりで見に行くのは無理だと思ったし、早いうちに見ておきたかった。見終わって会場を出て、南へ歩いた。住宅街ではあるけれど時折畑がある界隈は、東京の田舎であったかつての姿を忍ばせていた。こういう地域の長い間未利用地であった区画に、唐突に林立する狭小住宅のコピペ感が苦手だ。晴れた平日の午後、こんな時間に会社休んで歩くなんてちょっと罪悪感があってたまらないのだけど、トボトボ歩きながら時折ポツリポツリと話した。何を話していいのかわからなかった。頭のなかに大きな重いカタマリがドカンと鎮座していることはわかるけれど、とても口から吐き出せなかった。吐き出す方法もわからなかった。
今もどう書き留めようかわからないまま、とりあえずキーボードを叩いている。

鑑賞中は別に沈鬱になっていたわけではなく、楽しかった。祖父江さんによる設営もさすがで、絵と言葉の両方がバッとこちらに強くやってくる。岡崎京子の魅力を汲み取ってディレクションされていることがよくわかった。小学校の文集の文章、なんてのもあって、その頃にもう、後に漫画家として活躍する岡崎京子の視点が完成されていて驚いた。


音楽と映画が常にあった。入り口でピチカートがかかっていたけれど、場内でもいろんな曲がかかってたら面白かったかも。(権利問題がタイヘンだし、鑑賞する集中力が欠けてしまうので却下するけど)今改めて読むと、引用したジャケや映画がわかった。コマ割りも映画的なんだなあ。見開きの絵にも心つかまれた。描かれる女の子の服装を見ていると、その時代が感じられてワクワクした。漫画が漫画だけの世界にいなくって、音楽も映画もファッションもテレビもみんなリンクして、引用しあってた時代。そういう共犯関係が生まれる幸福な時代。そう、岡崎京子は「その時代」の刹那をギュッと奥まで掴んでパッと描いてくれる。けれど描かれていることは決して刹那ではなく、今と地続きで古びれたところがなかった。勿論ちょっとしたディテールでは80年代ダナアと思うことはあるけれど、あの頃にもうこんなこと書いてたんだ!と新鮮な発見が幾つもあった。時代の瞬間を描きながら、普遍的な感覚で捉えているからなんだろうな。台詞の端々にまでその姿勢が感じ取られた。前向きな諦念とでもいうような気概がそこにある。


それにしても彼女の目は「見えすぎる」。これだけ見えすぎる人が、ネットが当たり前の今も変わらず暮らしていたら……と思わずにいられない。なにしろ96年という、日本での一般的なネット文化前夜だ。ギャル文化なんてものがその後更に盛り上がりを見せ、出版業界もDTPに移行する時期でしょう? とにかく、時代の大きな大きな潮流の節目の杭が打たれるときに表舞台からいなくなったというのは、あまりに示唆的で、あまりに・・・。ソフィア・コッポラの映画をどう思うのか、聞いてみたいな。


展示内では小沢くんの名ばかり時折出てくる。王子様キャラなあの頃の記事もあったけれど、どう見てもやっぱりアレは異常だ。普通じゃないよなー。。。「ど真ん中に行ってみないとわからない」からと本当に実行してしまったその頃、私は辟易して引いていたから考えたことがなかったけれど、「ヘルタースケルター」を経て事故に遭ったのが96年5月、「球体の奏でる音楽」が出たのが96年10月。既に制作済だったかもしれないけれど、その後の活動も含めて何らかの作用はあっただろうなと邪推はしてしまう。図録の寄稿、あれ、ちょっと、ズルいよ!冒頭から軽くムカつきながら読み進めて最後、仮面と片目のくだりでドッと涙がこぼれた。「寒い夏の朝に ひとりきりの部屋で 呑みこまれてゆく魔法のようなもの かんじてる」(”恋しくて” 97年7月)なんて言葉が今改めて滲みる。


高校時代は「東京ガールズブラボー」の連載を読みながら東京で暮らすことを待っていた。上京後は「リバーズ・エッジ」の連載が始まった。それが90年を挟んだ時代そのものだった。ある日下北の南口の階段を降りてたときに、岡崎京子が下を通り過ぎたのが見えた。マックのほうから線路のほうへ。そのスーッと流れる様の光景が忘れられない。ほんの瞬間でも嬉しかった。事故の話を知ったのはそれから数日後だった。