「あとのまつり」


「若いインディペンデントの映画作家たちを紹介するために」開催されたイベント、「未来の巨匠たち」の初日を飾った瀬田なつき作品、最後5本目に上映された「あとのまつり」はとても素晴らしかった。ぎゅうぎゅうの会場からふっとからだが抜け出して、ダンスした!ああこの気持ちをどう言い表せばいいのだろう?
まず言っておきたいのは、「"90年代後半"にたくさんのモノゴトを吸収した」ヒトの作品だなってことだ。ここにあるのは"「LIFE」で始まった喧騒の果て"だ。「まつりのあと」だ(今週頭の話でほっとしたのは、あのころが彼にとって「後の祭り」ではなかったってこと)。ああ"「ドゥーワチャ」〜短冊シングル連発期"そのものだよなあ!ってセリフ&リズムそのもの!
この週初めに「復活」で沸いたまま、この映画を見て週が終わるなんて、まったくよく出来た冗談のよう。ただ、この作品で大切なのは、"「LIFE」がはじまりである"ということ。「ヘッド博士の呪い」にかかってないってこと。「墓掘りの成れの果ての袋小路」ではないからこそ、「90年代的引用のアレコレ」が「いまここ」と奇跡的に繋ぎ合っている。


「ノリコとトモオ」は走る走る走り抜ける、街にはたくさんの何かが転がっている、だから出逢うんだ、小さなからだ全部で、光!音!ああ胸が高なる、だからダンスダンスダンス!…駆け抜ければ次々と過去になる、僕らはすべてを忘れてしまう、それを「既に」知っているから、出逢うもの全てが「今まで見たことない」新しさに満ち溢れるんだってこと、だから「はじめまして!」って手を振るのだ、だって「イルカが手を振ったこと」を知らないんだからね。
たどり着いたのは東京湾岸、豊洲。ここはたった一度だけ「フジロック」が行われた場所だ。「東京オリンピック宿舎予定地」でもあった、このポカンと荒れ果てた草むらには「ハルナと山田くん」がいるのではなく、「ノリコとトモオ」が「全フェス!」って飛び跳ねたってこと、ただそれだけで胸がいっぱいになる。それにしても少女の瑞々しさは刹那の輝きで、キラキラしてるけどなんて残酷。だからこそ、そんな「トクベツなイマ」を軽やかに果敢に映しだすのだ、瀬田なつきという1979年生まれの監督は。


実のところ、1本目の「彼方からの手紙」(2007年)はパーツの我が立ちすぎていたり、固定観念が本能を邪魔しているような、そんな気がして、一枚のパッチワークとしては居心地が悪かった(あと音響が良くなくて、音楽がノイズに感じてしまった…これはしょうがないよね)のだけど、最新作である「あとのまつり」では見事にバージョンアップされていることにも感激してしまった。あと、「心象は風景である」といっていいほどにロケーションが良いし、「少女のキラメキ」の切り取り方がうますぎることにも震えたよ…。
これから如何に踊り続けることが出来るのか、それを楽しみにしたいなあ。