夏の暑さとライヒとジュノと。

土曜日。朝からうだうだと暑い。ちょっとだけ遠出してお昼にパンをもりもり食べる。ここの生地の味わいと店に流れる空気、周辺の街並みが大好きだ。
それから移動、セール*1の文字が踊る雑踏のなかを擦り抜け強烈な日差しを避けるように珈琲屋へ。珈琲、アイスではなくホット。熱くてにがにがを胃へ届ける。ほっとする。しばらくここで過ごし、それからまたしても日差しを避けるようにお次ぎは本屋へ。
そんでもってまた移動、まだ明るい夏の夕暮れの下、駅近くの立ち飲み串揚げ屋で軽くひっかける。といいつつ私はウーロン茶で。タマネギの串揚げは熱くてふきだしそうになった。ガラス越しはまだ青さが感じられるなかこういう酒場で過ごすのはなんとも楽しい。

さっくりと食べ終わって外へ、遊歩道を歩く。空に浮かぶ雲は大きく口を開けて私を呼んでいた。さてどこへ?
2件目は富山の郷土料理。昆布巻いたかまぼこ。とろろ昆布の汁物。実にうまし。
外へ出るとすっかり暗くなり、路地に入って迷いながらなんとか帰宅した。


日曜日。録画しておいたライヒの特集番組を見る。
テレビで聴いても本来の素晴らしさの何分の一だとはいえ、TVで見たことでの特典は「演奏風景をにじり寄って拝める」ことだ。特に俯瞰したアングルは演奏者の手元(ライヒの鍵盤を手を重ねるようにして叩く様やグロッケンのバチの頭のまんまるがぽんぽん動く様、その細かな反復具合といったら!)は勿論こと、シームレスに場所を変え動く様がとてもたのしかった。この動きもまた音像のひとつとなっていた。
あたまのなかがしろくなっていく。高層ビルの窓枠の連続性なんかを思い出し、ヴァザルリなどの抽象絵画を思い出し、くるくるくるくるぱたぱたぱたぱた永遠に止まらないループがなり続けるのだった。
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外出、お昼はポルトガル料理。暑いときには暑い国の食べ物を。でもポルトガルの暑さであったのならば風が気持ち良さそうだなあ。タコと豆の煮込みは、絡まったスープの魚介類の複雑な旨味が広がりハーブがきいていておいしかった。


それから映画を見に行った。もういちど「JUNO/ジュノ」。オープニングですでにじわあっときてしまった私は単に歳とって涙もろくなったのだろうか。ばかである。
妊娠しなかったら「個性的で斜っぱな」ジュノは「気づけないまんま」ティーンエイジャーを終えたのだろう。この話は「ジュノが妊娠したこと」よりも「ジュノが成長したこと」が大事であって、妊娠は成長譚のキッカケにすぎない。
と書くと不謹慎な物言いではある。でもそういう描き方がよかった。
現実はそんなふうにいかないよという「つくりばなし」がツッコミいれることなく心にぐさりと刺さったのは、大きな柱があった上でディティー*2を丁寧に積み重ね、ディティールが「単なる記号ではないところで」機能しているからだ。ディティールの積み重ねによって描かれるマークの存在は、そのままジュノの成長に跳ね返る。90年代だったらマークのその後の日々こそが映画化されそうだよねえ。
そうそう、「世代」を感じさせるトコもポイントなのですが、そういえば携帯やi-podでてこなかったよねえとか、敢えてそうしたのだろうケドそれによって地面からすこしだけふわりと「浮かび上がってる」部分があって、そんなどこかノスタルジックなトコも涙腺を緩める所以なのかしらん。
この映画のことを考えるのはとても楽しいです。

*1:今年の夏は買わないと決めたので中にも入らないのっ!

*2:音楽や服装や小道具や台詞とかもう、ねえ。