倉敷〜美観地区はどこへゆく


倉敷といえば「美観地区」、川に沿って白壁やなまこ壁の続く「レトロ」な街並みを思い起こすことでしょう。
昔からの街並みを「街づくり」と称して保存した地域を最近よく見かけます。私もいくつか訪れましたが、如何にも旧来の「ニッポンの観光地」な土産物屋のノリに加え、観光地として新たに整備しすぎて「テーマパーク然」とした街も多々あり、倉敷に対しても正直不安を抱いたまま向かったのです。


朝の光を浴びて佇む歴史的景観は、さすがに美しいものでした。街並み保存の先駆者として年月を経て、変に浮いたところがなく風景として馴染んでいるのです。



そもそも倉敷はどのように発展してきたのかを調べると、戦国時代に大阪冬の陣の際の軍需港として干拓がすすみ、地主がこぞって蔵を建て「開発」されたことが始まり。その後江戸時代には「天領」として幕府の保護の下、倉敷川が運河として機能する、物資の集散地として栄えました。しかし明治に入り、一気に衰退していきます。そこで再興しようと、豪商であった大原家により「倉敷紡績」が設立されます。
これが後のクラボウで、大原家はその後「倉敷絹織」を設立、これが後のクラレです。ってあのアルパカの!ミラバケッソ! (CM効果って大きいねえ)
父が興した倉敷紡績を継いだ大原孫三郎氏がスゴイ*1のだ。昭和初期のあの時代に、自ら私財を投じて美術館を始めとする建物をランドマークとして建設し、荒廃した蔵を活用して旅館や店舗にすることを持ちかけたり、街を再開発するにあたって「古い街並みを壊すのではなく、その美しさを残しながら発展させよう」としたのです。その先見性といったら!「わしの眼は十年先が見える」が口癖だったという話にもナットク…
その姿勢を引き継いだ息子の總一郎氏を中心とした街並み保存の動きは、第二次世界大戦を経て、行政が取り組むものとなり、ついには昭和54年に「重要伝統的建物群保存地区」として国の選定を受けるまでになったのです。

そう、確かに美しい。これほどの街並みを維持し続けていることは素晴らしい。しかし、「観光地」として年月を重ねただけの「手馴れ感」があるのです。街が「個人商店」の集合体ではない、奇妙な居心地悪さがあるのです。「美観地区」とは言い得て妙なのですが…。


美観地区の一本向こうの通りは、ごく一般的な街の風景でありました。
観光客は全然いないし、地元のかたがポツポツ歩いているような、猫がにゃ〜んといて、マヌケなイラストのポスターや看板があるような、普通の街。でも、そういう姿にほっとしたのです。
しかし周辺商店街は、他の都市と同様の寂しい街並みでした。美観地区の賑わいが嘘のようです。

先ほど美観地区で抱いた居心地悪さは、周囲との落差から来ているのだと思います。美観地区が市民とはすっかり離れたところにあって、もはやテーマパークを超えて、ポッカリ存在しているだけに思えるのです。

倉敷も郊外化が進み、中心商店街の機能はすっかり衰えています。1999年にイオンモールがオープンし、こちらは地元の人々で大変な賑わいを見せているようです。ところが工場跡地活用のためにイオンを誘致したのは、なんとクラレなのでした。そう、倉敷の古い街並みを守り発展させた、あの大原家なのです。
「街づくりの祖」が自ら「街を衰退させた」格好なわけで、なんともオソロシイ…。大原孫三郎氏の志の継承が、何処かでズレてしまったのでしょうか。



さて、倉敷には有名な自家焙煎珈琲店があり、珈琲好きとしては楽しみにしていました。なにしろ東京で私が一番好きな店のご主人も、かつてその店で修行したというのですから。しかし残念ながら美味しいとは言い難く、胃がムカムカしてしまう始末。まず接客からして「観光客向け」なお決まりトークで、ガッカリ。岡山の珈琲屋さんがおっしゃっていたとおり、経営者が変わったことが大きいのでしょう。
「師匠」として慕われた方の味はこの店自体に継承されなかったんだなと、ちょっと悲しくなりました。


辛口なことばかり連ねてしまいましたが、そんななかにも倉敷の底力を感じさせる店も出始めていました。ちょうど今が過渡期であり、孫三郎氏の口癖であった「10年先を見据えた」街づくりが、地元の人々によって無理のない形で進んでいくところなのかもしれません。

*1:美術館のほかにも、研究所や病院の建設や、銀行に電力会社や新聞社の前身などの経営にも関与したり、倉敷に今も残る社会貢献・地域貢献事業を数多く手がけていて、この人が倉敷を築いたといっても過言ではないくらい。