東横線渋谷駅


木蓮の白い花弁が青空に向かって羽ばたいている。今年は「あ、」という気付きも薄いまま急激に花開いてしまい、なんだか味気ない。ゼロかイチかのどっちかしかない気候なんて嫌だなあ…。


住宅街から商店街、そして駅前へ、車道を渡ってそのまま住宅街をずっとずっと歩く。バスとすれ違い、マンションを見上げ、また商店街、駅、幹線道路、住宅街。言葉で記せば同じだけど、それぞれは異なる街並を形成している。どんな家や商店がどのように並んでいるのか、この街がどんな年月を歩んできたのか、鉄道会社が変わればまた違う雰囲気になる。
都内有数の住宅街を歩く。とても立派な邸宅が並ぶけれど、古くからの家屋や商店もちらちら残っていて、不意に昭和な空気が浮かび上がる。突如表れるのは荘厳な趣きのカソリック教会で、まさに白亜の殿堂。クキクキと角を曲がり、緩やかな坂をくだると商店街、東横線の駅へ辿り着いた。ホームに来た電車は「渋谷行き」だったけれど、赤ではなく茶色のラインの「副都心線車両」だった。


まだ桜が咲いていない目黒川を渡り、細い坂道に沿いながら上っていく。車の往来が激しい駒沢通りから一本隔てたこの旧道は時の流れがのんびりしている。旧山手通りと交わるところで地下へ潜り代官山駅へ。坂を上がり切り、またすぐ下る勾配の途中にある格好で、半地下とでもいうようなホーム。まだ仮設状態で完全に出来上がっていなかった。
駅を出ると高架線路から眼下に望むのはくねくねした路地に連なる店やキャッスルマンション、続いて右手の都営アパートを眺めながらJR線路を渡ると、1階が都バス基地の都営アパートの高層住棟、左手に清掃工場の煙突を確認しながらゆっくりと大きく弧を描いて走っていくとふっと頭の何処かが白く停止する感覚に陥る。ああ、このカーブからの風景が大好きだ。線路ギリギリにびっしり並ぶマンションや雑居ビルにぶつかるんじゃないかというように切り込んでいき、交差点が見えたところでくいっと曲がりきると明治通り渋谷川のスキマを埋め込むように建つビルの窓や非常階段が目の前スレスレに続く、程なくして電車はスルスルとホームに入るけれど駅舎の向こうに歩道橋と渡る人々が見え、光が目に入り、街の喧噪を感じ取り、終点渋谷。ぞろぞろとホームへと降りて、たくさんの乗降客と高い天井や壁の新製品や新譜の広告に組み込まれつつも開放感があったのは、街の外気と繋がる駅舎の構造のおかげだろう。通勤通学という日常利用が主であったとしても、終着駅という情緒を、ごった返す長いホームを歩き改札を出るときに思い起こすことが出来る。この駅からこの街へ、その先へと気持ちの切り替えが知らず知らずにされたことだろう。


という記憶を蘇らせながら、窓の外は暗闇のままとなった。アナウンスが聞こえ、電車は渋谷駅へ到着。乗降する人やカメラを構えた見物客で賑わうホームは地下だけに仕方がないけれど広がりがなく、グレーを基調とした味気ないほどの簡素さで、ラッシュ時の大混雑が容易に想像出来た。むしろ乗り降りを拒んでいるかのようにも見え、東横線副都心線が繋がったことで単なる通過駅に変わったのだとさえ思ってしまう。下車したとしても駅直結の商業施設で事足りてしまうのだ。駅を降りて歩くことで街と私が繋がったけれど、郊外の街にも商業施設が増え、買い物も音楽も本も映画もすべて手のひらで事足りる今、歓楽街で、渋谷で、人々は何をするのだろう。


各個人の街の記憶は「まちづくり」という大きな名の元に影響される。私が慣れ親しんだ渋谷の風景だって、戦後の混乱を抜けて覆い隠すように高度経済成長期に作られたものが多いだろう。今から変貌する風景も当たり前のものとなり、いずれまた刷新されるのかもしれない。そのころ私は。