「親密さ」

この映画を見て感じたことを文章に起こしてまとめることはとても難しい。けれどなんとか書き留めておきたい。
監督が日々抱えていた疑問と苛立ちと目に映り込む美しさが渦になって生まれた明日への意思が、迫り来る焦燥感とともにもの凄い密度で詰まっていた。長い長い手紙のような映画。才能と若さと熱意と野心に溢れる実に勇敢果敢な作品であり、熱を帯びながらも冷めた眼差しが注がれていて、とても頭の良い人なのだなあと思った。
そんな様を、対岸から眺めていたような4時間半だった。私はもうとっくに若くないという証明かもしれない。ゼロ年代後半の空気がパックされた映像に対して私は90年代前半の精神論に蝕まれていることもあるのだろうか。
映画の構造としてあらゆる点で凄いことは、疎い私にすら感じ取れるけれど、内蔵された部品に関しては違和感のほうが大きい。


読み上げられる言葉よりも、床に貼られたビニールテープと木箱数個の置き換えだけで多面的な広がりを得る舞台装置と、役者と観客の切り取り方が、この世界を端的に映し出していた。前半で語られた、劇団員たちの閉塞的な日常とネットで消費される安っぽく上っ面な似非思考の数々の対極。2部の演目自体*1よりもそこがとても興味深かった。

ラスト。彼が”あの果て”に選択した「居場所」に呆気に取られ、それでいて昔は出来なかったテンションの高いコミュニケーションを会得してるなんてあまりにも残酷な笑い話だし、言葉が消えたあとに遠景で”わたし”と”あなた”の関係性を想起させるラストショットは、長時間丹念に積み重ねた感情を昇華する目的よりも、私には諦念に満ちているように思えてしまった。


次の日の夕方、電車の窓からふっと見えた空に昨晩スクリーンから刻まれた空がかぶさって、ドキドキした。映画を見ることは自分の実生活を更新することが出来るのだ。そう、電車映画でもあって、在りし日の東横線渋谷駅を捉えただけでもスバラシイ。人も変わるけれど街も変わるのだ。
濱口監督が掲げた旗。見ることが出来て良かった。違和感があったとしてもそれは嫌な物ではなく、これこそが人と人の間にあるものだと思うのだ。

*1:どうしても馴染めない部分が多かった