共喰い

金曜の会社帰り。今日見る映画は20:45からと遅め。まずはご飯食べて、本屋行って、服を見て。あっと言う間に時間が過ぎていく。移転オープンした中古盤屋にも行った。狭くなりレコードがなくなったものの、今までと雰囲気が変わらず誠実なところが嬉しかった。


さて渋谷シネパレスにて「共喰い」を見た。
音が主役のように立っていた。映像に負けない音像が立ち上がっていて、過度に強調されたところどころにはおかしみさえ覚えるほどだった。
原作は陰気で猥雑で泥臭い世界が描かれていると想像するけれど、青山真治監督によって映像に変換されると、透明で奇麗でさらっとした印象が残った。街を流れる深くはない川は生活排水が垂れ流されて酷く澱んでいるように見えるけれど、頭の中に残るころには浄化されていた。彼らに対してもこちらに迫るような痛々しさを敢えて抑えているような印象があるのは、監督の理性なのかなあ。ストーリー自体は血縁のしがらみを描いているのに、端正に整えられた画面からは「このシーンは○○のように撮ろう」という気概のほうが先に滲み出てしまう。冒頭から主人公が懐古する口調でモノローグが刻まれる故に客観的な冷静さが伴うけれど、原作もそうなのだろうか?田舎の鬱屈とした風景は記憶の中のそれとして漂白されたようにも見えた。
街の風景は見えても街で暮らす人々が見えないのは、主人公の家が噂話で繋がる田舎の街の人々と離れているからだろうか。ラストの「時代の終わり」も唐突で、時代背景としての意匠が登場していたら違和感は無かったけれど(コトコさんがお仕事に出るときの姿くらい?)、あの家の中はもうすこし前の、70年代な雰囲気のままだった。母親が出て行ったときに止まってしまったかのように。
そして「女はしたたかで強い偉大な存在」として描かれて最終的に母性にゆだねられるところ(エンドクレジット!!)、「サッド ヴァケイション」と繋がるのかもしれないけど、私にはそんな男性視点がどうにも馴染めないのだなあ。
見ているあいだは面白いなーと思っていたのに、思い返すと気になる点ばかりが出て来てしまった。それでもやっぱり青山真治監督の作品をもっと見たいなあと思う。その画や音に頭を刻まれたいし、まだ見ていない作品(「赤ずきん」など)も見る機会に出逢いたい。