会津の街から

※GW 会津若松の旅記録 その3 です※


会津若松駅。お城のカタチをしているよ。

赤べこさん。

そしてやっぱり白虎隊。

道中、幾度呟いたことか…の「ならぬことはならぬ」。

なんだけど、大河ドラマ見てないんです・・・
会津若松駅からの通りはいかにも旧街道といった風情で、昭和30〜40年代の趣きで止まっていました。大河ドラマのポスターが至る所に貼られているというよりは「貼ったまま」であり、街の角には案内板も無く、そもそもこの道を歩く観光客なんていないようでした。

氏神さまも寂びれていたけれど、ぽつぽつと蔵造りの立派な建物の店舗が表れ、この街の土台が見えてきました。


会津の街は戊辰戦争で打撃を受けましたが、太平洋戦争では米軍の空襲を逃れたために昭和以前からの建物が多く残っており、市では「歴史的景観指定建造物」として指定し、保存されています。街のあちらこちらにワア!と声を挙げてしまう建物が点在していて、テクテク歩きながら見つける楽しさがありました。


まずはこの佇まい!藍色の帯に描かれた家紋と障子に書かれた「荒物」の文字も凛々しいこちらの荒物屋さんは、なんと天保12年建築!戊辰戦争もくぐり抜けたとは!時代劇のセットのようなこの店構えが未だ現役であることが凄いー。



圧倒されたのが白木屋漆器店。漆器屋さんでデコラティブな洋風建築というところがモダン!大正3年建築だそう。


こちらは今はイタリアンレストランですが、元は銀行だったそう。大正11年建築。


会津若松駅から一つ先の七日町(なぬかまち)駅はレトロな雰囲気で残っています。
この通りは歴史的建造物が特に多く並び、和菓子屋さんや雑貨店に骨董品などふらりと散策する街になっていました。


界隈で一際目立つこちらは大正時代に建てられたもので、格子が実に品よく美しい。広大な敷地に風格タップリ。現在は料亭旅館ですが元は海産物問屋だそうで、ナルホド。。。当時の勢いが偲ばれます。

「七日町通り」と呼ばれるこの辺りは、城下の西の玄関として栄えていたものの、昭和30年代以降は郊外へ向かう人々が通り過ぎる”幹線道路”となり、衰退してしまうのは哀しいかなよくある話。しかしこの元 海産物問屋の跡継ぎであるご主人を中心として平成6年に評議会が発足し、街並みが生まれ変わったのだそう。
http://www.hibinoshinbun.com/files/110/machi_1.html


花と陶器が並ぶこちらは2階の土蔵が堂々とした存在感。大正5年建築。


特に強烈だったのがこちら。呉服屋さん。

昭和2年建築のまさに「the 看板建築」!モルタルで施された文字が愛らしい。

で、上に「第二営業所」とあるから、?だったんだけども


近くにあるこちらが本店だったそう。先の「第二営業所」とともに大正15年建築。

カッコイイ!こちらのほうが「本店」らしい? 現在はスポーツ用品店に。


紀州屋 1934」と金文字も美しいこちらは昭和9年建築で、1階は雑貨店2階はカフェ。元は金物問屋だったそう。




駅からずんずんと歩き、野口英世の記念館がある通りの意匠が80年代だなあと思い(ドラマ化とかしたのかな)

アーケード商店街を抜け、神社や市役所(これがまた立派なクラシカルな建物!)を目にしながらぐるーりと歩いて行くと、満車の駐車場にあたり、その向こうに鶴ヶ城。思っていたほど「大河ドラマの舞台」として賑々しく盛り立てる派手さは無かった。


家族連れで結構な人出、みんな車でびゅっとここにくるんだなあ。こちらは会津若松駅中心市街地 → 鶴ヶ城飯盛山(白虎隊最期の地とさざえ堂)→ 駅とぐるーり大きく市内を一日回り、多分10キロ以上は歩いたよ・・・

旅中にいただいたごはんはどれも美味しかったナア。この土地柄のものを使った田舎料理でありながら、洗練されたもてなしにどことなく京都への憧憬と敬意が感じられたのだった。

●五色に輝く「五色沼

2日目の朝、会津若松からJRで猪苗代駅で下車。すんごく寒くて本気でどうしようと震えていた……。ここからバスに乗って五色沼へ。明治時代に磐梯山が噴火した際に形成された数十の湖沼群で、沼の水質は火山や植物・藻などの影響により、緑、赤、青などの様々な色で輝くことがその名称の由来なのです。ほんっとうに美しかった。



1時間ほどのトレッキングコースは、木立の中に佇む沼の色合いにドキドキしながら歩む楽しい道のりでした。

●蔵の街、喜多方


五色沼から路線バスで山を下り、喜多方へ。

蔵の街として人気の街の駅には酒樽が飾られていたけれど、確かに日本酒の蔵元がいくつもあり、この街をずっと支えてきたのでしょう。







昭和29年に町村合併により発足した喜多方市は比較的新しい街です。至る所に点在する蔵が「観光スポット」として脚光を集めたのは、1970年代後半にテレビで取り上げられたことがきっかけのようで、その後80年代に入ると、市の観光課が観光業者に紹介したことにより「ラーメン」が特集され、今や喜多方の代名詞となりました。ラーメン屋はほんっとにたくさんあって、観光客も地元民もお気に入りの店があるのかな。
車で点を移動することが主軸の昨今であっても『酒、蔵、ラーメンを求めて歩き回遊する街』であるなあと、行き交う人々と行列するいくつもの店を通りながら思うのでありました。

●東京への出入り口、郡山

最後の日、東京へ戻る新幹線の乗り換え駅である郡山でいったん下車、最後に街歩きをしました。

駅ビルが栄えていて、飲食店やファッションなどお馴染みの店が連なっていたし、駅前にも大きな商業施設があって、周辺は若者が多くてほんとうに驚きました。デートの2人も多かったのが印象的。明らかに会津・喜多方と違うのです。
アーケード商店街を抜けると


空き地が広がっていて、再開発用に看板が設けられています。さっきまでとは変わってひっそりと。


こんな通りを歩く観光客もなかなかいないだろう……
住宅のあいまに公園があり、

時計台が素敵なこの建物は市の公会堂で、大正13年建築とのこと。

郡山は会津若松や喜多方とは街の成り立ちが異なるように感じられました。wikiによると、江戸時代は宿場町であり、明治時代に開削された安積疏水により大きく発展したようです。農業用水・工業用水・水力発電・飲用水にも用いられることで都市化が進み、開通した郡山駅鉄道路線の分岐駅となり、戦後の高度経済成長期には企業が多く進出したことで関東地方との繋がりが強まったという背景に納得。そんな歴史も今新たに転換期を迎えているようでした。


会津〜喜多方〜郡山と福島県の3都市を回ると、同じ県であっても文化圏の異なりがクッキリとあり、福島県の奥深さを痛感したのです。