恩師の講演会で久しぶりに母校へ。大通りに沿った正門を入ると隣接のホールで記帳を求められ若干緊張する。久しぶりの校内はあの頃のままの建物と建て替わった物が混じっているけれど、記憶の中の風景と重なった。


先生にはあの頃と同じ「光と力」に満ち溢れていた。30年前と変わらない眼差しに驚くけれど、その光も力もずっと深く広がりが加わっていることにも驚かされる。この10年余りに悲しい出来事が続き「色彩を扱えなくなった」と仰った時期の作品は確かにオレンジや青などの鮮やかな線が印象的な作風とは異なっている。そしてまた今、本来のご自身の色を取り戻しており、色彩と線、心と体の関係性を思う。
悲しみの最中に於いても「描き続けた」こと。その源はなんだろうか。
若い頃海外へ留学した際、68年にナイル川の流れを見た瞬間の心の動き、それをずっと求めてつかまえたいという探究心こそ、自分とは何者なのかという人間の根源的な意識で、自分の時間を生きているからこそ30年前と変わらない光と力を放ちながら私たちに語りかけることができるのだろう。


私は絵を描くことに未だ特別感があり生活と離れて考えてしまうのだけど、20代頭に描いた油絵と対峙し、先生の作品やお話しに向き合うと、いつだって始められるんだよとこれからの歳の重ね方を考え、30年後に先生のように光に溢れた姿で生きていたい。



外へ出るとその気持ちにリンクするように光と緑が輝いていて、遠くの人々は感じるけれど無音で、ベンチに座ってしばらくぼーっとした。大学って社会から守られている楽園だなあ。あの頃は全然わかっていなかった。


中庭を覗くと数人の学生が踊ってTikTokで上げるであろう動画を撮影していて眩しかったし、今回の講演はzoom配信だし、時代の変化も改めて感じるのだった。