違国日記

「違国日記」はY氏が勧めてくれて読んだところ、意志を強く感じる言葉の数々が刺さり続ける漫画だった。9巻あたりがピークで最終巻はあっさり読み終えた、それは作者の意図通りなのかもしれない。映画化、配役と瀬田なつき監督作と知った時の衝撃。主演女優から作品選びが始まるわけだから仕方がないとして、瀬田監督の原作アリ作品は個人的評価が低いのよ・・・
休日のごった返す繁華街を突っ切り、辿り着いたシネコンエントランスをみっちり埋め尽くす人の数とむせかえるポップコーンの臭いにグッタリしながら、深呼吸して中へ入った。ひっそりと見たいな。。。


そんなこんなで高まる不安だったけど、初期作品から瀬田なつき監督作品を見続ける身には、脚本・編集でこの内容、ホント感慨深い、良い映画だった。詞の「エコー」を発端に槙生と朝が言い合って、学校の廊下をスキップへとつながるくだり、めちゃくちゃ瀬田なつき!染谷くんが大人役で登場にも泣けた。瀬戸康史の在り方も素晴らしかった。


漫画に必須のモノローグを廃し、映像で伝える。カーテンを開けた部屋に、体育館に、差し込む光。瀬田監督が思い描く光を見事に捉える四宮秀俊の撮影! 仕事部屋の3枚引き戸の使い方もうまかった。人と人の間がそこにあった。
瀬田監督といえば「リズム」であり、噛み合っていない2人のリズムが、お互いに異なるまま、スクリーンのなかで瑞々しく音を奏で響いていた。


まあ、正直言うと引っかかる部分もあったし、生身の人間がやると生々しいんだな、葬式だの届出だのマンションだの、諸々の処理が大変なんだよなーと考えてしまった。なだけに原作漫画は登場人物に弁護士がいるのはさすがだけど、槙生の交友関係に違和感はある、自分と比較して。(友達が家に来る!)。朝が学祭で歌うオリジナル曲のグレードの高さはまあ、ね。チャットモンチーが影響を受けたミュージシャンて誰だろね)
漫画は平面なのに何故「空気感」という立体の感覚が生まれるのかな。「違国日記」は言葉の漫画ではあるけれど、繊細な描線があるからこそ、で。台詞と描線が生み出す世界観、ともいえるのか。



そんなことで、映画は原作漫画の素晴らしさとは切り離して捉えている。(小説が原作の「夜明けのすべて」と比較しちゃうとこはあったけど)
昨今のタイミングで漫画原作の映像化はとてもハードルが高いし、強い思い入れを持つ人が多いだけにわかってない!端折られた!と憤慨されるのは理解出来るけど、映画は漫画の再現フィルムではないし、興行としてのビジネス面を考慮する必要もあるのだから、原作を汲み取っていないと糾弾することにも疑問がある。


そもそもあの漫画が映像化やアニメ化するほどのポピュラリティーを得ることが今の時代なんだろう。「分かりあえやしないってことだけを分かりあうのさ」って言葉がマイノリティだった時代に青春を過ごしたワス……(瀬田監督は"オザケン"からだと思うけど、この感覚を持ってる世代だろう)


瀬田監督は10代の少女の秒単位でくるくる変わる様をリズミカルに魅力的に撮るので、依頼としてそこを託されたのだろうし、「違国」を標榜する原作とはズレるよねえとは思う。新垣結衣主演映画を探すにあたりこの作品を選択した意図も想像しやすいけれど、槙生世代をしっかりと描ける日本映画はまだ当分製作出来ないだろうね……と上映前の予告を散々見ても痛感する。とほほ。
そういえば、みーまーのとき(2011年)瀬田なつき監督と黒沢清監督の師弟対談があったけど、今新作が一緒の映画館でかかってるんだな!(もしかすると濱口監督作もってところあるのかな)


最後に、パンフレット(装丁が豪華でびっくりした。バジェットの大きさを痛感するよ・・・美術監督安宅紀史による間取りの説明が嬉しい)の監督インタビューで、"ヤマシタトモコさんができれば入れてほしいと伝えたエピソードはディテールをすこし変えた"と言及しているけれど、エンドロール最後に「助成:文化庁文化芸術振興費補助金」と表示されたことは関係があるのかどうか、は書いておこう・・・。