from世田谷toイギリスそしてまたニッポン。

その日私は世田谷美術館に行こうと思っていた。所蔵品展の難波田史男展に行きたかったのだ。同時開催中の企画展「十二の旅〜感性と経験のイギリス美術」も気になるけどがっつり見たいという気持ちにならず。所蔵品展だけだと200円、企画展も見ると1000円。1000円かあ…イマイチ使う気持ちにならなかった。金券ショップにもチケットは置いていなく、とりあえず難波田さんのだけでも見ようかなあと向かった。
館内へ入ると40代くらいの女性に声をかけられた。「券が1枚余っているのでよかったら使ってください」「…え?」どうやら招待券をペアで貰ったけれどお一人で見に来ているようだった。ありがたく戴いたことで、なんとタダで見ることができたのだ!さっきまで1000円出すの渋ってたのに…。下さったあのひとありがとう!ああ神様ありがとう!
(長いので畳んでおきます)

「十二の旅〜感性と経験のイギリス美術」

『日本とイギリス両国の交流を「旅」をキーワードに読み解いていきます。』という内容に惹かれるんだけど、どうなんかなあと見始めた。ところがそれがまあ、とっても面白い展示だった。
主軸となるターナーは嫌いじゃないんだけど特になあという程度だった。が改めて向き合うと靄がかった空気と光がやわらかい感触の風景画の美しさ、エッチングの繊細な描線の重なりあいや細かに描かれた人々の表情を見入る楽しさがあった。
ワーグマンによる江戸末期の日本の風景、宿場や茶屋の娘の姿は浮世絵や時代劇で見知ってはいるけれど油彩画で描かれると新鮮で妙にリアリティがあった。今までは寸劇のように感じていたものがワーグマンの眼差しを借りることで実感出来たことがなんとも不思議。
バーナード・リーチの大皿は描かれている蛸や鹿がとっても愛らしく、ベン・ニコルソンのコラージュはクールで部屋に飾りたいなあ...
そしてそして、ホックニー!『龍安寺の石庭を歩く』に興奮した!そのタイトル通り「龍安寺の石庭」を被写体にした写真作品は100×160ほどの大きさだけど、普通のスナップ写真をびっしり重ね合わせて1枚の風景写真に仕立て上げているのだ。石庭だから掌サイズの一枚一枚の殆どが小石がただ写っているだけ、その重ねたとこが微妙なリズムを生んでいる。一番下のとこに赤と濃いグレーの靴下が交互に写っているのがまた素敵なアクセント。ああーこれは印刷じゃあ感じ取れない。離れて見届けて、近寄って見つめて、見る度に発見があり興奮とともに穏やかな気持ちになる、ずっとずっと楽しめる素晴らしさだった。


そしてもうひとつ、私をトリコにしたのはアンディ・ゴールズワージー
その土地土地で採取した葉や枝、雪などを使って生み出される作品は「朽ちる前に写真で切り取り」残すことで「その自然物を彼が発見し採取するまでの時間」から「制作し」「今私が見ているこの瞬間」までに於ける時間が凝縮されている。
中でもぐっと来たのは『カエデの葉を投げる、庚申川渓谷、足尾 1990年11月3日』。紅葉したカエデの葉の束を手いっぱいに掴んでぱああっと宙へ放り投げている、その様子の写真が何点か並んでいる。なんとも濃厚で鮮烈な紅色は秋の渓谷の光を浴びてキラキラ輝き宙へ浮かんだその瞬間が切り取られるとまるで「彫刻」のように見えるのだ。一枚一枚違った形、そうその「彫刻」はほんの一瞬だけしか存在しない。たまたま写真に捉えられた瞬間だけが「形」として残るのだ。
なにげない自然とわたしが、ゴールズワージーを仲介として繋がったような、まあるい輪がそこにあった。
タイトルもそれぞれいいのだなあ。手帳にちょこっと記す「今日の一日」みたいなんだけど、仲介者として繋げるための糊の要素を含んでいつつも「アンディ・ゴールズワージー」という作者の姿が強烈に響いてくる。自然に触れた彼のこころの喜びが伝わってくる。


世田谷でイギリス人の作家たちに連れられて、わたしは日本を旅したのだった。
ポスターを見た限りだとターナーとかその辺りだけだと思い込んでいたので、ホックニーゴールズワージーがあったのは嬉しかった!見てよかったなあ。。。ああチケを下さったかたのおかげです。ほんとうにありがとうございましたと、改めて伝えたい気持ちでイッパイ。
それから2階に上がって所蔵品展へ。

波田史男展

繊細な線は自由自在に舞い踊り豊かに広がる色彩は私のこころも染めてしまう。
「バライロとアオイロとキイロとミドリと純愛」こんな素敵なタイトルに胸がきゅんとして絵を見てこころにバラが咲く。
モグラの道」「イワンの馬鹿」のようなコーナーの半分を占める超大作は絵巻物語りのよう!ちっちゃなまるの表情一つ見てもたのしいなあ。
執拗とも云える描線や色面の書き込みは、頭にどんどん浮かんでくる夢の映像をとにかく吐き出したくて描かざるをえない状況のように思える。でもとっ散らかしたというよりは、音楽を奏でるように右へ左へタクトを振って魔法をかけたよう、そんな彼のこころのなかへと旅をした。
うっとりとしたりわくわくするよな透明で無邪気でほわほわと浮遊し漂う世界は次第に黒い闇に包まれ始める。飛ぶのを止めて地面にべったりと横たわったようで息苦しく悲痛な声にならない叫びを感じて展示は終わる。
事故により32歳という若さでこの世を去った彼だけどもしそうでなかったら、このあとどんな絵を描いていただろうか。
展示の最後のコーナーに記されていたのはスケッチ帖に残されていた言葉で、めくるめく幻想の世界を旅したこころにじゅうっと沁み入りいてもたってもいられず受付で貸していただける鉛筆で書き留めてしまった。

ぼくらの本当のそして芸術の究極は、
ぼくらのまわりのものをいっさい食べこんで、
ぼくらの心の中で煮とかせて、再生することなのだ。
その時ぼくらは、ぼくらの紙(パピエ)と指先を見つめ、
どちらにゆこうかと思考する。
そのときぼくらの意にしたがった線がひければ、
快(よろこび)の感動、
心はリズミカルにはずむ。
抽象思考と感情移入、内面のリアリティ

ジム・オルークのアルバム「CORONA-TOKYO Realization」
コロナ-東京リアリゼーション
武満徹の『ピアニストのためのコロナ』をジム・オルークが演奏したものですが、ジャケットに難波田史男の絵画を使用しています。