肥薩線が伝えてくれること

さて「はやとの風」眺望席、

私は鹿児島の地ビールでウマー!、禁酒令執行中のY氏はほっこりとレモングラスのハーブティ。
以上を車内販売で購入し、くつろぎながら肥薩線の旅で見たものを反芻します。


先ほど私を魅了した、ループ線スイッチバックといった技術をこうまで駆使して、急勾配の難所に「あえて」鉄道を敷かざるを得なかったのは何故でしょう。
明治時代、「国の一大事業」として日本を縦断する鉄道が計画されました。「鹿児島から熊本を結ぶルート」に関しては、海岸沿いを走る線よりも遥かに工事(も運転も)が困難な、人吉〜吉松経由の「山線」が選ばれたのです。
それは、「海からの攻撃を避けるため」と、関門海峡が封鎖されて九州が本州から孤立しても「人吉は食料自給率が高いため、線を敷いておきたい」という「国防上の理由」からでした。
また、予想される難工事で当時の鉄道技術の粋を集めることから、「日本の国力」を諸外国に見せつけたい意図もあったかもしれません。


完成すればなんてことはないかもしれない、しかし。
一番の「難所」であった矢岳第一トンネルが完成したことを祝す石額*1があったり、
各トンネルは古いレンガ造りのままであったり、蒸気機関車に送るための水を溜める給水塔や機関士さんの洗顔台、開業時のままの駅舎などなど、明治の最先端の技術と工事や運転に関わった人々の情熱が偲ばれる、まさに「生きた鉄道博物館」でありました。
また、「復員軍人殉難碑」や大隅横川駅にあった「第二次世界大戦での機銃掃射跡」など、明治以降の日本の足跡が刻まれていたのです。


こんな豆知識を、要所要所で停車してこの目で見たり触ったり、車内放送のアナウンスやリーフレットで丁寧に教えてくださることで、ただ風景や車両を見てノスタルジーに「いいねえ、きれいねえ」というだけではないものになりました。


これらが何故今も残っていたかというと、「鹿児島本線」と呼ばれていたこの路線は、昭和2年に開通した水俣・川内を経由する海沿いのルートにその名を渡し、「肥薩線」と呼ばれるローカル線に"格下げ"されたことに尽きます。これにより文字通り「取り残され」「眠っていた」ことで、「鉄道遺産」として現在陽の目を見ることになったのは興味深いことです。
本線のままだったら輸送力強化のため、発達した技術を元に長いトンネルで一気に山を貫通し、古いループ線などは壊され、駅舎も新装されたことでしょう。


そして水戸岡鋭治氏という優れたデザイナーにアート・ディレクションを一任させたことが大きいのはいうまでもありません。
点在する「歴史遺産」へと運んでくれる列車自体に「ワクワク感」をつくりだし、点と線と点全てが「旅」であることに統一性を持たせてくれました。


彼が「JR九州の顔」であるという「女性乗務員さん」。誇りを持たせるために「上質な素材の」制服をデザインしたそうです。
彼女たちの仕事は車内販売の売り子や販売物の積込作業だけでなく、検札や切符の発行などの車掌業務もあり、駅に着けばお見送りをし、乗車記念のプレートを持ってきてカメラマン(時にモデル)もしてくれるし、車内の飾り付けや清掃もと、大忙し。接客もとても丁寧でマニュアル感はまったく無し。私が停車中に栗の木の写真を撮っていたら「この栗、掴んでもって帰りたいですよねー」などと気軽に声をかけてくださる。そこに接客という「お仕事」ではない、「もてなしのこころ」を感じます。
乗車記念のプレート


こんなことをJR九州が押し進めただけでは、上手く行くはずがありません。
無人駅の駅舎はゴミひとつ落ちていなく、季節の花が生けてあり、ホームでは特産品を販売したりお茶を振る舞ってもてなしてくださる。これはJR九州側と地域の人々との相互理解と協力があってこそです。(車内販売では地場産業の手づくりクッキーなどがあったり、ハーブティも恐らく地元農家の栽培によるもので、ティー・バッグではなくガラスポットでいれてくれました。)


地元の利用者なんてごく僅かの無人駅が続く、本来なら廃線になるようなローカル線に観光列車を走らせ、見事に客を呼び込んだのは、この「古びて儲からない」路線に散りばめられたものこそ「明治の鉄道技術の結晶」であり、「近代日本の歩みが凝縮」されていて、「今では貴重な文化財として歴史的価値がある」のだと「気づき」、先人たちの遺業を讃え、守っていこうとする「思い」が生まれたからではないでしょうか。
そして観光列車をただ走らせるのではなくて、地域の方々を含めて「みんなが楽しめる」ことで、我々をあたたかく迎え入れてくれるのだなあと今日一日乗車して痛感しました。

*1:政府の最高責任者の山県伊三郎と後藤新平による篆額