鹿児島の風土に根付くもの


鹿児島の街を歩いていると、喫茶店をよく見かけました。

しろくま」が「ウリ」の店も多く、いわゆる昔からの「喫茶店」も新しめの「カフェ」も、自家焙煎の珈琲店もたくさんあって、どこも閑散とすることなく賑わっていました。
レコードの話のときにも書きましたが「JAZZ喫茶」はいくつもあったし、そうそうこんな店も…

「CD喫茶」!CDならジャンル問わずあるのかー?「好きな曲を聴いてください」って、ホントになんでも聴いていいの?いいの?


どこの店も、喫茶店というよりは、「家の外のリビングルーム」みたいに見えました。みんな長居してそうで、外から覗いただけでも妙なくつろぎ感があるのです。
ここでふと思い出したのは、知覧の茅葺き屋根の小屋や霧島温泉駅のホームでいただいたお茶であり、先ほどの珈琲店でした。
「商売」ということよりも「もてなし」がそこにあったのです。


そういえば、晩ご飯で入った店では「これも食べてー」「ついでにこれもねー」などとたくさん、もてなしてくれたなあ。
そうそう初日の列車も、「接客サービス」というよりは「もてなし」でした。
それに車内でも街角でも、地元の方々は優しく接してくれて会話が弾んだことがとても多かったのです。私が1話すと3返してくれ、3話返すと5返してくれる感じで。


鹿児島の歴史を振り返ると、古くから諸外国との交易が盛んであり、異文化が常に入ってきた土地です。勿論、恐怖もあったことでしょうが、そういった地理的要素と歴史背景により、外からの人々を受け入れることに長けているのではないかなあ、と思えます。
そんな風土の表れを、ヨソから来た私はあちこちで感じ取ったのではないでしょうか。


また、交易で伝えられたものを自らに取り入れ、新たに広めていく文化の橋渡し役もしていて、例えば諸外国から伝来された芋が「薩摩芋」になり、琉球のチギアギが「薩摩揚げ」になり、今当たり前に使っているものが鹿児島経由であるなんてこと、結構多いかもしれません。
橋渡し役でいったら幕末なんてまさに薩摩藩の働きがあってこそ、です。


未知の存在を受け入れ、もてなし上手だからこそ、橋渡し役が出来たのでしょう。「受け入れる」ことについては、桜島の降灰との関わり合いからの影響も大きいのではないかなあ、やっぱり。