みみをすましておとをきく


ちょっと前の話になるけれど、不思議な散策をしてきました。「みみをすまして」歩くというワークショップに参加したのです。

舞台は晩秋の休日、閑静な住宅街。天気は曇り。時折バイクや車が通り過ぎますが、予想以上に静かで人は殆ど歩いていません。耳につきやすいのは鳥の声。

ただ歩くだけではいつもの散策と変わらないけれど、例えば十字路で立ち止まりセンセイが、音の跳ね返りについてご教授くださったり、マンホールの下を流れる水の音の聞こえ方を気づかせてくれるのです。そうやってテクテク歩きながらも耳の感覚を研ぎ澄まし、音を見つけていきます。「天気によって聞こえる音も変わる」とのこと、空気は乾燥し、風もない穏やかな天候ですが、雲で蓋をされている感覚はたしかにあります。立ち止まって、目を瞑って、「みみをすます」。普段の散策では、感覚を「目に映るもの」へ使う割合が高いのだなあ。

小さな公園で一旦休憩。ここからは第二段階、とのこと。
パッと入ってくる音ではなく、その奥にある音を感じ取るのです。歩きながら耳だけ集中も難しいけれど、次第にあたまが真空状態になっていくような…頭の前面ではなく側面からアンテナが出てキャッチする感じ。
日々、音は無意識に入ってくるものだけど意識的になることで聴覚が広がるとともに、いい意味で「狭く」なる。


途中の公園で一休み。葉のざわめきや踏みしめる落ち葉を音を楽しみつつ、いつもよりも「音」に敏感になっているようです。ここを折り返しとしての帰り道は聴覚を平常に戻すべく、おしゃべりをしたりして。こどもがはしゃぐ公園でまた一休み。さっきまでの静寂がほぐれてきました。
同じ道を通っても、なんだか違う道のような気分。
私は普段からヘッドホンして歩くことが苦手だけど、やっぱり外界の音を感じて歩きたいって改めて思った。今までだって聞いている気になっていたけれど、気づいていない音っていっぱいあるんだよなあ。
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それから2週間後、里山散策をしたときに頭上遥か彼方から落ちてくるいくつもの枯葉を見ていたら、音符が落ちてきたような気がして、ゾクゾクとワクワクが混ざって震えてしまった。


それからまた2週間後。とある店でライブを見ました。ちいさくて細長いヒミツみたいな空間に、観客は8人だけ。演奏家はひとり。珈琲の薫りを漂わせながら、蝋燭を灯して、爪弾かれるアコースティックギターだけが静かに響く。否、ギターだけではなく、前の道路を走るバスの音や通り過ぎる子供の話し声までもがギターの音と重なりあって、「音楽」になっていたのです。生活音が、ギターがつくりだす「間」に絶妙に入り込んでバランスを取ることに驚いてしまう。
この店は、外の音は聞こえてくるのに不思議とうるさくなく、穏やかで落ち着くところに常々惹かれているのだけど、そんな空気に添うように、一音一音奏でられている…。
目を瞑って、耳の感覚だけをすまして、聴く。そう、このあいだの不思議な散策のように。
音は次々と私のあたまのなかをすり抜けては消えていきます。今日の演奏での楽曲は今、この瞬間に生まれただけで、カタチとして残ることはなく、二度と聴くことは出来ません。でも、私の中のどこかに積もり重なって存在を残していくのです。
純粋に音がそこにあった。この空間に、今の時間と回りの環境に合わせて音を瞬間的に作り上げていくそれは、音でスケッチしているようでもありました。

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次の日の朝、電車を下りて車が行き交う幹線道路を歩いていたら、ぐあっと音が立ち上がってきてハッとしました。ぷあん、と時の流れが変わった。停止したのとも違う、世界がいつもと変わらず存在しながらも、私のパースで切り取られ、車の走行音や自転車のブレーキ音なんかが、粒になって降って来たのです。
あ、あ、あ!音楽が聴こえる!

先程のライブを行った店は開店2周年だそうで、演奏家氏に促されて語られた言葉にもぐっときました。
「この店は私が開けなければ始まらないのです…。お客様に長年やっていた店を閉めたかたがいらっしゃるのですが、久しぶりに店があった場所を通ったら、建物が跡形もなく消え更地になっていたそうです。それを見て、ああ自分がずっとやってきたことは夢だったのかしら…とおっしゃっていて、その言葉を噛み締めています。」

世の中の形態はどんどん変わっていく。そのなかで私はどういうものが好きで、どのように出逢い、受け止めていくのか。その輪郭をクッキリさせてくれたいくつかの出来事。それはすべて繋がっているのです。