みえないちからをかんじながらあるいたり、きこえないおとをきいたり


土曜日は暑いくらいだったけど、日曜日はちょっとくぐもった空だった。コートを着てこなくてちょっと後悔した。お昼ごはんに山椒がすこぶる効いた四川麻婆豆腐をむぐむぐ頬張り、鼻汗をかいてからだがスッキリしたところでICCへ。「みえないちから」展を見た。
タイトルからして「持って行かれる」この展示は、フィッシンガーが出発点であるところからしてもう、期待せずにはいられないのだけど、予想以上によかった。
まずはやっぱり、オスカー・フィッシンガー作品上映会を鑑賞。大きく見るのは、以前横浜美術館で見た以来でしょうか。楽しかったなあ!音が絵が同期して踊ってる!胸が高鳴る!音が無くても音が聴こえてくる…!改めて見て、今と繋がっているなあってドキドキした。
そして小金沢健人さんの作品。とってもきれい。光。色。時間。そのはじっこであり中心が映しだされている。私は彼のエッセイも好きで、それは「散歩」について書かれていたのだけど、歩くことで掴まえる感覚の描写にめちゃめちゃ同感して、ジタバタした。それが目の前の作品と重なって、ああこれは日々歩いている人の表現だってすごく嬉しかった。
フォルマント兄弟はおもしろいっちゃおもしろい。言ってることは「確かに」であるし、だからこそこんなやり方してるのがバカバカしいんだけど、新作にしてはどうにも感覚が古いなあ。。。これ、テレビでやってたらただの「胡散臭っ」だよなと思うと、「現代アート」というものの位置が伺えて興味ふかい。
堀尾寛太さんの作品もまた大掛かりなバカバカしさと共に、品があってよかった。連鎖反応が引き起こすピカッ!は見てて単純に面白い。
そして最後の、志水児王さんの作品。部屋に入ったときの、しっとりとしたあの空気を、光を、私は忘れないだろう。緑の、光、ゆらめく、光。ああああああ溶けてしまいそうだった、溶けたくなった、溶けた。わかりやすい何かが提示されているわけではない、でもそこに漂うじわじわしたはじっこのそれがわたしのこころを震わせた。まさに「みえないちから」がそこにあった。

これとは別に、オープンスペースの無響室でやっている渋谷慶一郎+evalaの展示、うーん、ちとモノ足りず。ドーン!が立ちすぎているような…。まさに「みえないちから」が感じられなかったかな、なんて。


外へ出たら、空がやわらかく明るくなっていた。

それからお菓子を食べたり、不思議な坂道商店街を歩いて、住宅街へ。坂道のなか、路地がごちゃごちゃ入り組んでいる。古い小さな家屋と新しい大きな豪邸が混在していて「これぞ資本主義!」といった具合の街並み。広い空き地が「共同住宅建設予定地」と書かれた看板を掲げているところもちらほらあり、この数年で風景が変わっていくことが伺えた。
幡ヶ谷〜西原〜上原〜代沢と歩いて、三軒茶屋へ。

おうちのリビングみたいなところで、ギター2人組の演奏会。ソファーにどっかり座って、のんびりと聴く。これまで見た何回かの演奏とは異なり、パリっと張り詰めた緊張感は和らいでいる。この場所の雰囲気がそうさせるのでしょうか。とはいうものの、研ぎ澄まされた音色は健在。演奏というよりは、紡ぐといったほうが合うような気がする。
今日は2部構成で、後半はギターのようでギターじゃない、摩訶不思議な楽器も加わっての演奏で、また違った感触が。いつもと違う風が吹いていた。
弦を爪弾けば音が鳴る。この音をつなぎあわせてメロディが生まれる。そんな当たり前のことがここにはなかった。音と音のあいまを感じる。聴こえてくる音を聴くのではない、聴こえない音に気付くこと。漂う波動を感じ取ること。
「みえないちから」の展示と共通するなあって、ちょっと震えてしまった。
いいいちにちだったなあ。