再びハローやながせハローぎふ

GWに向かった岐阜の旅日記を綴っています。
1.「柳ヶ瀬〜再生する繁華街
2.「岐阜市内ぶらり散策〜街ごとに特色アリ
3.「”澄んだ”街、郡上八幡
4.「奇天烈奇妙極彩色!トンチキ神社へようこそ。


さてはて。岐阜市内をぐるりと歩いて気付く街ごとの違いには、その街が繁栄した時代背景が映し出されていました。
【戦国時代】岐阜城織田信長が天下統一の際の拠点にし、楽市・楽座令の元、川原町を中心に城下町・問屋街として栄えます。

【江戸時代】徳川家康が築城を指揮した加納城の城下町である加納町が中山道の宿場町として発展します。

【江戸時代中期〜明治時代】岐阜城・川原町から南下した伊奈波神社の周辺が、娯楽・盛り場として賑わうようになります。

【明治中期〜大正時代】中心地を避けて更に南下した水田が広がる地帯に鉄道駅が開通(現岐阜駅)、駅と官公庁間の新開地に柳ヶ瀬が出来ます。大正時代に入ると柳ケ瀬にも商店が増え始め、百貨店や映画館など繁華街として賑わうようになりましたが、戦時中の大規模な空襲によって焼け野原になってしまうのです。
 もいちど地図を。

長良川から徐々に繁華街が南下しつつ、それぞれの街も歴史を踏まえて独自の文化を構成し、住民意識が高いことがとても興味深いです。


最後の日、柳ヶ瀬商店街へもう一度。自家焙煎珈琲屋でひとやすみ。こちらのご主人に東京から来たと伝えると、柳ヶ瀬について教えてくださいました。
空襲で焼けて瓦礫の街となった後、早い段階で百貨店が復旧、商人たちはバラックで商店街をつくるようになり、映画館も開業、たった数年で全国に例を見ないほど急速に復興し、昭和30年代に入ると大通りは人で溢れかえるようになったそうです。当時の新聞記事のコピーを見せてくださいましたが、年末のアメ横以上に人でギッシリ!凄まじい有様でした。
どの店も文字通り「飛ぶように」売れ、昭和40年代には「柳ヶ瀬ブルース」に唄われる街として全国的な知名度を得、土地の価格も高騰、一時代を築いた状態となったのです。平成に入ると次第に他の都市と同様に衰退するようになりますが、活況した当時に得た蓄えがあることから、さしあたって生活に貧窮することはない商店も多かった模様。また家賃も平均的に高いままのため、新たな借り手が付かないのです。そういえば、郡上八幡の喫茶のおにーさんは「岐阜市は家賃が高くて手が出なかった」と言っていました。
一時期あまりに繁栄したためにその成功体験がぬぐえないのだと、地元民ならではの愛情を持って、ご主人は話してくださいました。
2000年に入ってから、跡を継いだ世代により柳ヶ瀬を再生させる試みが始まり、10年経って地元に根付き、広がりを見せています。
映画好きのご主人は若い人たちと一緒に、柳ヶ瀬を舞台にした自主映画を製作するなど、「映画の街」でもあったかつての熱を取り戻そうとしています。
もういちど、岐阜の街へ「ハロー!」って挨拶してる、そんな雰囲気。


長良川の清流と金華山の輝きに育まれた岐阜市は、近くに名古屋という大きな都市がありながらも、穏やかな空気に包まれていて、我が街を愛するという気持ちが滲み出ているように思います。今新たに蒔いた種が青々とした葉を更に茂らせることでしょう。
街の成り立ちというものは唐突に出来上がる物ではなく、長いスパンで積み重ねられていくものだと改めて気付かされました。

残念だったのは、2005年に廃止されてしまった路面電車。一度乗りたかったな。