閉店

好きな珈琲屋さんが閉店するらしい。理由が「入居しているビルの建替えのため」ということが、あまりに哀しすぎる。その後もどうするか決まっていないという。手回しロースターを手繰り、ネルで細かに円を描きながらツツツ…と湯を落として抽出する姿が珈琲の薫りと苦みとともに浮かんできた。東京の変化を肌で感じるような賑やかな街でひっそりと長年続けておられて、細長い店内の蔵書の背表紙は葉巻の薫りも混じりながら珈琲色に焼けていた。外の風景がどんなに変わっても、ずっと変わらずズシンと落ちる強烈な苦みと広がる甘さのある珈琲豆を焙煎していた。どんなに混んでいるとしてもネルで丹念に一杯づつ抽出されていた。珈琲に対するこだわりが強く深くありながらも、珈琲よりも友人とのお喋りに興じる人々にも寡黙にドアを開けているような店だった。
先日もとある中古盤屋さんが閉店する報を聞いたばかりだった。こちらも同じく「入居しているビルの建替えのため」という。私鉄の駅の、歩いて5分ほどの店で「街のレコード屋」といった風情だった。立地としては良いとはいえないけれど、その街は多分音楽好きが集まりやすくてだからか品揃えがとてもよかった。オールジャンル取り揃え、良心的な価格設定、所狭しと陳列されているけれどこざっぱりとした店内。音盤を買うことがご飯を食べることのように日常的な人々のための店だった。閉店ではなく移転とのことでほっとしたけれど、レコードショップといえばの超繁華街に移るからチョット複雑…。
どちらの店も街の成り立ちと店の佇まいが馴染んでいて、提供するものと店のひとが結びついていた。これは一朝一夕に出来ることではない。ひとりのひとが、店を街に開いて、毎日毎日繰り返し続けてきたからこそのこと。店が、並ぶものが、店主や働く人々そのものだから、おざなりなことなくきちんとしているのだと思う。
そういう店がこんな理由でなくなってしまうのは理不尽だと思わざるを得ないけれど、そうならざるを得ないのも今の理りなのだろう。


そんなことを考えていたら、とある音楽家の死去を知った。破天荒な日々を送ってきたと思われる人がこんな理不尽な理由でなくなってしまうのは、なんともあっけないことだ。そういう線の上にわたしたちは生きている。