だんじりとカーネーションだけじゃない〜城下町 岸和田


さて喜連瓜破から移動して大阪を南下、岸和田へやってきました。

糸子がお出迎え。久しぶりだー。

駅前商店街のアーケードは新装されたようで、やっぱり朝ドラ効果は大きいんだろうなあ。

「オハラ洋装店」をイメージしたスペースのようです。

こちらはコシノファミリーが実際に住んでいた家で、ギャラリーに改装した模様。どちらも混んでたし入らず。。。
でもその混雑も界隈で開催中の町内会のイベントの影響のようで、アーケードを中心に周囲の路地は子供も大人も地元の人たちで随分と賑わっていて驚いた!屋台などでみんな買い食いしてて楽しそう。小学生の女の子グループがけっこう目に付く。
”朝ドラな”観光客もすっかり落ち着き、本来の岸和田の暮らしが戻ってきた感じなのかな。

岸和田といえば記憶に新しい「カーネーション」、そして勿論だんじり、それから清原(・・・)。なにやら威勢の良いイメージがありますが、半日歩いて見ると、城下町として発展してきた歴史の深さが感じられました。

岸和田城。お堀がたっぷりとしていて分断されているものの、街と地続きな印象。
城の北西側を通る旧紀州街道へ。

落ち着いた城下町らしい風情が残っていました。佇まいが美しくて歩くことが嬉しくなる感じ。

老朽化した町家の修景を行い、まちづくりに活かすやり方は全国的に見られるようになりましたが、奇麗に整えすぎてテーマパーク状態のところも少なくありません。しかし岸和田はあくまでも暮らす人々が感じられる、適度な空気がありました。

城の南側へ。フツウの住宅街と思いきや

同じ軒が連なるここは「十六軒長屋」と呼ばれ、大正末期に建てられたのだそう。

格子と植木がいい風情。
長ーーーい(ホントに16軒)通りの向かいの角を曲がると

今度はクラシカルでモダンな洋風建築の長屋が。「マンサード長屋」といい、「十六軒長屋」と同じく大正末期に建てられ、しかもどちらも地元の建設会社によるものだそう。

この勾配のある屋根が「マンサード」というらしい。窓などはアルミサッシに変えていたり、、保全も難しそうな状況。。。


木造家屋の並ぶ路地。

煉瓦造りの塀と木造の塀が隣り合わせ。

重厚で美しいこちらは「旧四十三銀行」。他にも大正から昭和にかけて建てられた銀行がいくつもあり、これだけ立派な銀行が必要とされた街ということなのだな。ちなみに電線がかなり高い位置にあるのはわかりますか?「だんじり対策」のようです。
岸和田は明治に入ると江戸時代からの豪商が紡績工場を設立し、紡績業が非常に栄えたそうです。このため石造りの洋館も多く建設され、当時の様子が忍ばれます。また戦災に合うこともなく、戦後に大規模な再開発が行なわれなかったことで、江戸時代に城下町として栄えた街並と明治大正昭和と紡績の街として栄えた街並が今も共存しています。



お昼に岸和田のご当地料理の「かしみん焼き」を食べました。水に溶いた小麦粉を丸く伸ばした生地の上にキャベツと鶏肉と牛の脂のミンチを乗せて焼いたもので、鶏肉(かしわ)とミンチで「かしみん」というらしい。美味しかった!お好み焼きよりももっと庶民的なおやつ感覚?
小さな店に鉄板がひとつ、先客のオッチャン4人はずうううっと”来年の”だんじり祭りについてアツく語っていて、10月に終わったばかりなのにスゴいね・・・。オッチャンたちの顔がみんな清原みたいなコワモテなのは何故…。店内にはだんじりのポスターが並び、うん、やっぱりだんじりが中心なのだなあ。
だんじりは江戸時代に五穀豊穣を願って始まったそうですが、明治以降は資産家がスポンサーとなり競うように地車がつくられ、ますます盛り上がっていったのかなあ。そして今は岸和田の人々の誇りであり絆であるのでしょう。
家族や友達同士、子供からお年寄りまで様々な世代の人々が輪になって行き交う通りを歩いていると、街並みが住民をつくりだし、住民が街をつくり、祭りが生まれ、暮らしが育くまれていく様子が感じられるのです。
それと元々の土地柄に加え、だんじりで各地から人がやってくるからでしょうか、店の人はいかにも観光客なものにも「外部の者」扱いせずにフラットに接してくれて、「おおきに〜」とにこやかにおくってくれるところが嬉しかった。それと観光案内もほうぼうに出ているのもナルホドなあと思いました。


標語がいちいちおもしろい。

「あぶない」おばーちゃんver.

こ、れ、ヤバいよ・・・

名字だろうけど、いいんでしょうか。。。

歩いてわかった岸和田の街。歩かないとやっぱり気づかない。
大阪はさすがにどの街も濃厚に個性溢れていてオモシロいな。短い時間でもぎゅっぎゅっと伝わってきた大阪旅でした。