店とわたし

・日盛りのなか、青山から麻布の路地を歩いた。アパレルショップが続く大通りから外れると途端に住宅街になる。車も通れないよな細い道に古い木造家屋が立ち並ぶ一帯は、広く更地になっていた。その先にある和菓子屋さんに立ち寄る。白髪のおばあさんが店に立ち、奥でおじいさんがつくっておられる小さな店。東京オリンピックの年に開業したという店内は隅々まで整えられているし、ケースに並ぶお饅頭に水羊羹に練りきりと、どれも丁寧に美しくつくられていて、お二人の姿勢が伝わってくる。今日は麩饅頭を買い求め、ゆるやかに上る坂を歩いていく。


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・別の店の話。オープン当時から通っているとある食事処は、暫く休養を取られており、何ヶ月ぶりかで再開した。「お久しぶりです」と店内へ。「お元気でしたか?」と店主さんと暫し言葉を交わす。相変わらず美味しくて、更に研ぎすまされつつも自然と笑顔が浮かぶ味。次々に入ってくるお客さんはみんな「久しぶりです」「楽しみに待ってました」と声を掛けることに、この店の在り方が伝わってくる。再開ではなく「再会」なのだなあ。


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・また別の話。閉店したとは未だに信じがたいあの店が「口のうまいヒト」によって生ける伝説として大仰しく語られ、商売道具にされているのがなんとも気持ちが悪い。この店に限らずであるが、決まった途端の「閉店狂騒曲」も嫌なものだ。


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・もやもやしながら眠りに就いたからか暑いからか、寝苦しくて目が覚めてしまい、ぼんやりと掌で呟きを辿っていたら飛び込んだ、「阿佐ヶ谷西瓜糖」の文字。好きな店だったなあ。日曜日に自転車で立ち寄ってた。スチールのテーブル、カップソーサーに添えられたピスタチオ。本棚には美術雑誌や美術書。背筋が伸びつつも気持ちのよい風が抜ける。こういう素敵な店が生まれる80年代の空気を感じていた。ところが、引越して以来久しぶりに通りかかったら、既に閉まっていた……。今なら家に居ながらにして小さな画面から閉店を知ったのだろうか、久しぶりに店の名を目にしたように。「待ち合わせしたレストランはもうつぶれてなかった」は「東京は夜の7時」の歌詞だけど、「その店に久々に行ってみたらなかった」ってこと、今はもう少なくなっているのかもしれない。


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・でもこの数年来で出来て愛着が湧いている店もいくつもある。そのずっと前から時代を重ね続ける店もまだまだある。だから私の日々のなかにある店も、まだまだあるのだ。