音楽とアートの蜜月時代〜“渋谷系”はなぜ生まれたのか

「ビーマイベイビー 信藤三雄レトロスペクティブ」関連企画として、信藤さんと牧村さんによるトークイベントが開催されるならば、わざわざ往復はがき1枚買って応募しますですよ!そして当選したですよ!ギャー!(区施設の企画なので応募が未だに「往復はがき」……)倍率は2倍だったそうで、当たったの感謝!!奇跡!!
というわけで、せっかくなので記録をズラズラっと記します。メモ程度なので記憶違いの記述もあるかと思います


カメラトークのTシャツを着た牧村さんが進行役。急遽小山田くん出演回が開催されることになったため”トラットリア以降はそちらで…”と、まずは信藤さんの生まれから。


信藤さん(以下”信”):祖父は日本橋の染物職人で父は絵を描いていた。生まれは田園調布だけど今と違って高級住宅街では無かった。


牧村さん(以下”牧”):東京のローカリズムというのがとても重要で、江戸の職人文化の血で育ったんですね。


信:小西さんから依頼が来てピチカートの2ndアルバムのデザインを手掛けた。当時は”Shinchang-Studio”という名義だった。あの頃”〜chang”、ングって付けるのが流行ってたから。そのとき白金に住んでて、小西さんも近所だったからよく会うようになった。


牧:信藤さんは引越魔で、僕と仕事するようになったときは僕は代官山で信藤さんの事務所は中目の高架下。


信:事務所で初めて会ったときの小山田くんは白いボタンダウンシャツを着てて、普通の格好なんだけど印象的だった。


信:フリッパーズ1stジャケは、少年たちが崖から飛び込む写真を写真集だったかで見たのがキッカケ。


牧:撮影は伊豆。(ドラムの)荒川さんに突然「泳げ」と言って嫌がる荒川さんを泳がせた。帯に使用されている。


信:カラーコピーを原稿にした。カラーコピーはコンストラストが付いて、昔の活版印刷みたいになるので良い


牧:会社側で騒然となった。ジャケはカラーコピーだし歌詞は英詞で。でも六本木WAVEで”これは邦楽売り場でも洋楽売り場でも売り出せる”と大プッシュしてくれたのを皮切りに、販売枚数が倍に更に倍にとなった。会社は外部から言われると弱いから話題なってるのを知って状況が変わってきた。(88−89年に大ヒットした)WINKが売れて入った3000万を使っていいといわれて、広告費に使おうとPVを作った。

〈牧村さん指定で「さよなら、パステルズバッジ」のPVを*1

信:丸ノ内線赤坂見附から四谷三丁目駅まで、ワンテイクのゲリラ撮影。カメラは2台、ラジカセ持って。いざ撮影というときにみんなビビったんだけど「やるぞ!」とガツンと言ったら、2人は度胸あるんだよねえ。アイツラは心がパンクだから。


信:「恋とマシンガン」のPVはパリで撮ることに。アニエスベーが本社の屋上を貸してくれたが、狭く斜めな屋根の上で怖かった。予定してたカメラマン(三浦さん)が急遽ダメになり、機材貸すから代わりに撮ってきてと言われて、経験ほぼ無いのに自分が撮った。(牧村さん「撮影代が半分になって良かった」)以来撮るようになって今もやるけれど、このときにエッフェル塔の前で撮った逆光の写真を超えることが出来ない。初期衝動というか。PVの最後に鼻つまみするけど、あれは2人のアドリブ。


牧:このとき回したフィルムのアウトテイクは僕が保管している。随分ダンボールを処分されたけど、これだけはって死守してる。


牧:”ヘッド博士”のジャケの3Dメガネはソニーが特許持っていて、1枚につき110円使用料がかかる。他に契約希望の人たちがいて、B’z(のファンクラブ?)、もうひとつがジャイアンツ。


牧:「奈落のクイズマスター」PVで登場するバスは中古で数十万で購入。そこに2人の友人筋の美大生がペインティングしたんだけど、出来上がりを見て2人は「ダサい…」と終始浮かない顔をしていた。


牧:4thは日英仏で出したいと、イギリスに行ってチェリーレッドに許可を貰ったところで日本から連絡が入り「2人と連絡がつかない」と騒動になっていて、結果解散した。


牧:その少し前に2人が海外へ行くので飛行機に乗ったときに乱気流かなにかで危なかったんだけど、そこで死ぬわけには行かない!と言ってたらしい。というのも、今死んだら牧村さんに変なベスト盤出される!からって。



冒頭で牧村さんが「信藤さんのことを”音楽をワンアイデアでビジュアルで翻訳する人”と称した人がいて、まさにコレだと。どなたの言葉がおわかりになりますか?」と信藤さんに向けると「川勝さん?」と即答。


以下、今回の中で信藤さんのアートワークに関する発言をまとめると・・・
・アートワークは重要だけど音楽ありき
渋谷系な方法論を捨てたいと意識していたときもあった
・LPからCDに移ったとき、CDだからこそ出来るアートワークをつくろうと思った。12インチのほうがいいに決まっているけど、単純に小さくしただけでは面白くないからCDをおもちゃのような感覚で。60年代にCDがあるとしたら?と頭でチェンジした
・CDだけでリリースされている盤をLPにする企画があるならやりたい


牧:(信藤さんにとって)渋谷系とは。(キター!って質問にゴクリ)


信:そもそも(渋谷沿線に)住んでたから普通の感覚だった。(そ、そうですよね・・・)


牧:渋谷系と言えば太田さんというのも事実だけど、1つの文化になったのは信藤さんの力、編集性が大きい。artをわかっていて、音楽と刺激しあう人。こういうデザイナーはなかなかいない。信藤さんは間違えなく、メンバーのひとりだった。


信:ぼくもそんな気分でした。


《質問コーナー》
・「アイデアが思いつかないときは」→「放っておく。タクシーとかに乗ってボーッとしてるときに正解が降りてくる」
・「今活躍してるアーティストでアートワークをやりたいのは」→「きゃりーぱみゅぱみゅ
・「フリッパーズの4thがあったとしたらどんなジャケに?」→「女性ヌードかなあ*2
 

***以下、感想***
◎初めて2人に会ったときの話で、信藤さんの「小山田くんの白いボタンダウンシャツが普通の格好なんだけど印象的で」って言葉は以前にも記事で読んだ事があって、デザイナーという視覚からの記憶が特に強そうな人が今も鮮明に覚えているほど、人生の断片感があるのだな。
◎信藤さんは引越魔だったそうで、小西さんや牧村さんから仕事の依頼を初めて受けた際に「家が近所」とわかって話が進んだというのは、当時だからこその感覚なのでは。すぐ会って話せる距離感。今ならいつでもどこでも。
◎信藤さんの「もうひとりのメンバー」な気持ちで手掛けたアートワークは費用が掛かって大変だけど、実現させるために牧村さんが奔走する。フリッパーズという素晴らしき2人の音楽がまずあったうえで、「信藤さんがビジュアルで翻訳した」ならば、牧村さんが「ビジネス面等で翻訳」したことで、パッケージされ世に送り出された奇跡なのだろう。あとwinkのおかげね(笑)
◎その3000万を「フリッパーズの宣伝に使おう!」とした牧村さん、ありがとうございます。。。
◎だから、そういう「素晴らしき大人」がいたからこそなのだと改めて思う。この思いは数日後に急遽開催された「信藤三雄小山田圭吾トークショー」で更に痛感するのです。
そうです、勢いついでにチケが取れたので、次回へ続く!


【追記】
「“渋谷系”はなぜ生まれたのか」というタイトルを改めて思うに、突然「新しいもの」が生まれるのではなく、脈々と繋がって受け継がれる「なにか」があるからだろう。「なにか」を水脈からすっとすくいだし、上流にいて「なにか」を知っている誰かが送り出す手助けをして、新しい「なにか」をその後の誰かがまたすくい取る。客観的に語るには時間が必要で、今はまだ見えるその水脈も暗渠になるかもしれない。けれど誰かが気づいてすくったり辿ったり、この先へと続けてくれるからこそ文化なのだと、大袈裟だけどそんなことを思う。(20180819記)

*1:パステルズバッジとはなんであるのか、を言ったうえで

*2:確かにその後のアートワークはソレ的なの続いたよね