漂流喫茶

f:id:mikk:20200404102343j:plain:w300
先月の頭、店主さんと話したくて伺った。このところの世の中を起点に、諸々話した。以前の店舗では壁際の椅子で静かに過ごしたけれど、間借り営業になってからは、カウンターで珈琲をいただきながら店主さんと話すようになった。のんびりした雰囲気なのにキリッと芯のある店主さんとチャキっとしたスタッフさんのコンビも良いし、ほっとしつつも力を貰う。かつての店内にあった書籍や漂う空気そのものが店主さんに内包しているのだな。建物の老朽化により退店を余儀なくされ、定住から漂流へ変わった営業スタイルだけど、店は店主そのものだなと実感する。



近所のコンビニでPOPEYE最新号をパラ見。飲食店にインテリアにファッションに音楽など、個性豊かな小さな店舗が並ぶ東京の街。若者による新しい店舗だけではなく、老舗も配分されて、ちょっとコアでちゃんと大衆向けもあるバランスの取れた街並み。そんな誌面に構築された「2020年4月の東京」は”架空の”「2020年4月の東京」だ。アトランティスの如く失われてしまったのだ。乱暴な言い方だけど、来年も全く同じ顔ぶれで存在するとはとても言い切れない。毎年恒例の、新生活に向けた特集号は華やかな鼻息を伴っていたのに、しんと静まり返っている。月刊誌というタイムラグが生み出したこの感情。(ところで我が国の首長はパラレルワールドにいるのだろうか?)


この状況下、「店」という空間で時間を過ごすことの意味を改めて想う。必要性だけでなく、天候、気分、時間帯などにより、ふらりと(ときにわざわざ)向かう場が店だ。店主は「誰かへの空間」をつくり、客は「誰かの空間」にお邪魔して、”お互いの自分の時間”を作るのだ(客にとっては勿論、店主にとっても)。肩書や役柄を置いて、会社でも家でもない場所で過ごす時間。それは双方の「共通認識(約束事)」あってこそ、成り立つのだ。飲食店のような長時間滞在する場合は特にそうだろう。「共通認識」が培われる前にSNSで即広まる時代ではあるけれど。


「こんにちは」「いらっしゃいませ」「おいしかったです」「ありがとうございました」当たり前と思っていた言葉を使わない日々だなあ。でもまたその言葉を発する日まで心穏やかに日々を紡いでいこう、珈琲と紅茶を飲みながらね。