長崎旅行にあたって必ず行きたかったのは、軍艦島です。「軍艦島」とは通称であり、本来は「端島」という名の小さな島については、昨今目にする機会も多くなり説明不要かとは思いますが、少し解説を。
- 長崎港から南西の海上約17.5キロメートルの位置にある「端島」。江戸時代の1810年に石炭が発見され、1890(明治23)年には三菱の経営による採炭が本格化、炭鉱としての開発が開始されますが、1974(昭和49)年に閉山し、無人島となった。
- 1916(大正5)年、大阪朝日新聞が端島を「二本煙突の巨大な軍艦に似ている」と報道し、その5年後、当時建設中の戦艦「土佐」に似ていることから、長崎日日新聞が端島を「軍艦島」として報道し、その愛称が定着した。
- 本来の大きさは「南北約320m、東西約120m」であり、6回の埋め立て工事によって「南北約480m、東西約160m」と拡張した。
- 島は三菱マテリアルが所有していたが、2001(平成13)年、高島町(当時)に無償譲渡され、現在は長崎市の所有地である(市町村合併により高島町が長崎市高島町になったため)が、建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていた。2005(平成17)年、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介され、2009(平成21)年、観光客が島の南部に整備された見学通路に限り、上陸・見学できるようになった。
今回、長崎港から出航する「周遊上陸クルーズ」に参加しました。天候や波の具合で出航・上陸出来ないことも多く、昨年度は7月の上陸率が低めだったので大丈夫かしら…と心配でしたが、無事出発のようです。
いざ!
広い海は太陽の日差しを浴びて青々と輝き、キラキラしています。
そして40分ほど経ったところで遂に…
見えてきた!
オオー!
徐々に高まるこの胸の内。
1時間ほどで島のドルフィン桟橋へ。
さて、上陸です。
遂に上陸
見学は島の一部に舗装された通路のみ歩行可能、遠くから眺めるのみとなります。それでも朽ちながらもズドンとそびえる建物の存在感がグイグイと迫ってきて、言葉もなくなってしまう。
高台右手に見えるのは、3号棟。1959(昭和34)年建設の「幹部職員住宅」。風呂付きですが、一般鉱員住宅は共同だったそうです。
瓦礫の奥に見える列を成した支柱は「貯炭ベルトコンベアー」跡。練炭をこれで貯炭場に運び、運搬船に積み込んだそうです。
支柱の奥に見えたのが「端島小中学校」。昭和33年建設の7階建で、1〜4階が小学校、5・7階が中学校、6階は講堂などがあり、1970(昭和45)年には体育館や給食設備が新設され、給食を運ぶ島で唯一のエレベーターもあったそう。
目の前にはこんな風景がゴロゴロしていて、衝撃的なんだけどそれだけではない、わけわからない気持ちが襲ってくるのです。
煉瓦造りの建物は、鉱山の中枢であった総合事務所。煉瓦から当時の仕事風景がブワッと浮かんできて、胸が痛くなってしまいました。
鉱山施設は殆ど崩壊していますが、右側の写真は「第二竪坑口」へ行くために設けられた桟橋への階段の一部。この階段を上って危険な坑内から安全な地上へ出たとのこと。
静かだけど、かつてここで働いていた人々のエネルギーがフツフツと伝わってくる。荒涼としているのに生々しい。午前10時とはいえ強烈な真夏の日差しを浴びながら、時間軸がおかしくなってクラクラしてきます。
ふと後ろを向くと青空と海が広がっていて、息をつく。
足元に波が覗いていた。ライフラインの取り入れ口。電気の海底ケーブルや水道の海底送水管がここから島内に入っていたんですね*1。
崩れた工場の向こうにあるのは
30号棟アパート。1916(大正5)年に建てられ、日本最古の7階建鉄筋コンクリート造の高層アパートといわれています。関東大震災を受けて設立された同潤会よりもずっと前*2!当初4階建だったのを7階に増築(!)したらしいんですけど…今じゃ考えられない…。どうなってんじゃ。ロの字型のこのアパートは中庭には吹き抜けの廊下と階段があり、地下には売店があったそうです。
長年、潮風に晒されながら放置されていたため損傷がかなりひどい。また、建築技術が未熟な時代であり、度重なる増築工事による負担に加え、島内でも一番激しい風雨や波が打ちつける場所だったそうです。
その左手に見えるのは31号棟、海岸線に沿って防壁のように建てられています。共同浴場や郵便局、理髪店があったとのこと。
島内には鉱員住宅として15棟ほど、その他職員住宅や学校、病院、役場支所など71棟もの建物が狭い土地を有効活用するために9階建ほどの高さを中心に立ち並んでいたようです。建物間は「空中廊下」で繋がっており、高層住宅とはいえ「長屋暮らし」のようにご近所付き合いが盛んで、コミュニケーションが密にとれた生活だったようです。
また生活用品を扱う個人商店から映画館、パチンコ、雀荘、バーなど「何でも揃っていた」そうで、家賃や光熱費は三菱側が提供するために非常に安かったことから、かなり贅沢な生活が出来、庶民の憧れであったテレビや洗濯機、冷蔵庫などの電化製品は多くの家庭に普及していたとのこと。石炭を採掘して得たお金で電化製品を使うとは変な話ではあります。
その華やかな生活はこの朽ちた建物からは到底伺いしれません。けれど、外れた拝管や崩れた階段とともに、窓枠から緑が覗き込んでいるのを見ると、過ぎた年月を思い、かつてここには人々が暮らしていたことを痛感させられるのです。
プールもありました。海に囲まれているのに?と思うけれど、島の周囲は波が荒く子供たちは泳ぐことが出来なかったそうで、しかも真水は貴重なので海水を使っていたそうです。
ここで桟橋に戻ります。
この石積みは、天川(あまかわ)と呼ばれる接着剤を用いた明治時代に使われた工法だそう。
再び船にのり、向こう岸をぐるりと回ります。
島の西岸へ
さっき見た30号棟と壁のような31号棟。
正面の祠は「端島神社」、拝殿は倒壊し、祠のみ残っています。その下にあるのは51号棟、1961(昭和36)年建設の8階建、左側は1953(昭和28)年建築の5階建。この位の年代・高さの公営団地は都内でもギリギリ残っていますね。
こちらは1945(昭和20年)建設の65号棟、地上9階建!ですが階段のみ。エレベーターが設置される予定だったところ実現しなかったそうです。島では一番大きな棟で、6畳・4.5畳の二間で317住戸あった模様。窓枠が外れ、物々しい印象が残ります。
こうしてぐるりと回遊し、
だんだん遠く、離れてゆく。1時間ほどの夢を見たような軍艦島上陸旅。
最後に
1936(昭和35)年にはこの年5267人と最高の人口を記録した端島ですが(「南北約480m、東西約160m」の狭い敷地にこの人数って!)、徐々に採掘区域が海底下浅部へ進行するにつれて、海水の浸透が強まったり高濃度のガスが発生するなどの環境悪化に加え、折しもエネルギーの需要が石炭から石油へ移行したことで、1974(昭和49)年に閉山。その3ヶ月後には島内の住民全員の離島が行われ、無人島となったのです。
まさに栄枯衰勢、使われるときは栄華を誇り、いらないとなればすぐ捨てられてしまう…。そこに人々の暮らしがあったのに、何故廃墟になってしまったのか。端島は炭鉱以外の産業が無い島であり、それが機能しなくなれば必然人は住むことが困難になるのです。フッと頭がぐらつきます。今の端島の姿を見るに、これは繰り返される出来事なのではないか?と思えてくるのです。今、我が国に限らず全世界において、エネルギー政策の転換期を迎えています。
軍艦島は一刻の「廃墟ブーム」としてその名が知られてはいますが、島全体が住環境の歴史やエネルギー問題を考察するうえで貴重な資料となっていることに気付かされます。閉山して40年近くとなり、ますます自然風化しているなか、異質の産業遺跡を「アトラクション」ではない形で未来に残していくことは、必要なのではないでしょうか。
とはいえ、私たち外の人間が「軍艦島」と騒ぎ立てるのもまた難しい。「軍艦島」とはあくまでも通称であり、住んでいた人々にとっては「端島」という名の小さな島なのですから。
2011年の今、見に行って本当に良かったです。
参考文献
軍艦島の遺産―風化する近代日本の象徴 (長崎新聞新書 (015))
- 作者: 後藤惠之輔,坂本道徳
- 出版社/メーカー: 長崎新聞社
- 発売日: 2005/04
- メディア: 新書
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