碓氷峠を登って下ったあとは高崎市内へ。見たい造形物がいくつもあるのです。
群馬音楽センター
アントニン・レーモンドが設計を手掛けた音楽ホールで、昭和36年に開館しています。
この扇状の外観が美しい!(逆光でいろんな角度から撮りづらかったヨ・・・)
中には入れなかったのでガラス越しに・・・。リズミカルで素敵な壁画は奥様のノエミによるデザインで、内装も彼女が担当。階段の手すりなどひとつひとつに意識が注がれているのが、遠くからでも伺えました。
こちらの小屋ひとつひとつがスタジオになっていて、練習などに使われているようです。
このホールは、戦後まもなく活動を開始し、日本の地方管弦楽団の草分け的存在である群馬交響楽団の本拠地であり、資金の3分の1を市民からの寄付により建設されたことに驚きます。その経緯もあって、老朽化により解体の声も一部でありながら、今もなお市民に愛され続けているのです。
参考 → http://www.takasaki-bs.jp/center/hall.html
旧井上房一郎邸
高崎という街を語る際に「井上房一郎」の名は欠かせないのだと今回訪れてわかったことです。彼は高崎の実業家であり、文化活動への理解も深く、群馬交響楽団や県立美術館の設立などに大きく関わっています。先ほどの群馬音楽センターの建設にも尽力し、設計にアントニン・レーモンドを迎えたのも旧知の仲であったことによるのです。萩原朔太郎との交流もあったようです。彼の働きによる影響力の大きさに驚かされ、これまで存じあげなかったことが恥ずかしい。
参考 →「文化と経済の融合をめざし 創造都市高崎を構想する 井上房一郎」
さて 旧井上房一郎邸は焼失した自邸を再建するにあたり、レーモンドが東京の麻布に建てた「笄町の自邸」に憧れてこれを再現しようと思い立ち(!)、レーモンドの快諾を受けて図面を提供してもらい(!!)、新たに井上邸として建築されたものなのです。こんな逸話から二人の関係性が伝わってきます。しかも元々の「笄町の自邸」はレーモンドの没後に解体されたので、もはや無いレーモンドの自宅の様子を知ることができる貴重な建築になったのです。
パティオが外と内を繋ぐフレキシブルな空間になっています。
居間は南面を開け放つと、庭と一体化してなんとも心地よい空間が生まれています。備え付けの家具などはノエミのデザインによるもの。一部の椅子には座ることができるので、しばらくぼんやりと時を過ごしました。外と屋内、そして自分とが繋がって溶けていくような感覚に陥り、とても落ち着くのです。そんな作用を起こすような気持ちを込めて設計されたのだと思いました。こういう家、住みたい……。井上さんが再現したくなる気持ちわかるヨ・・・。
房一郎の死後、維持が難しく公売にかけられたものの、市民からの寄付で乗り越えた後、高崎市が景観重要建造物として保存し、高崎市美術館の敷地内で管理されています。こんな話から井上房一郎が残したものが伺えて嬉しくなります。
実は訪問時にデジカメの充電が落ちてしまい、スマホで数枚撮っただけの写真でわかりにくい紹介になっていますが、以下のサイトなどで本来の素晴らしさが伝わります。是非御覧ください。
参考 → 「レーモンド設計の家 旧 井上房一郎邸」
高崎の街を歩くと、地方都市の衰退は確かに感じられてしまうけれど、そんななかに小さくとも灯りがいくつかあって、井上房一郎が支えた意識は今も市民の方々に染みているのではないかと感じました。「また高崎にお越しの際はいらっしゃってくださいね」と温かな声が嬉しかったのです。
群馬の森に眠る
高崎駅から北藤岡駅へ。
カワイイ。
こんな風景の中をひたすら歩く観光客なんていないことでしょう・・・
辿り着いたのは群馬の森。とても広い自然公園で、県立近代美術館(磯崎新設計)や群馬県立歴史博物館(大高正人設計…だけど改装中…)もありますが、目を引いたのはこの一帯にはかつて、陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所があり、今もその跡が残っているということでした。
「ダイナマイト発祥の地」なんて記念碑があったりもしますが、基本的に残されたままの施設には看板もなにもありません。またこの公園に隣接して建てられた研究所や工場がナントモな施設なのですが、群馬の森自体は子どもたちが遊びまわる公園として広く使われていて、平和で幸せだなあとしみじみと旅先で思うのでありました。
ベッヒャーな給水塔に逢いに
前橋駅でレンタサイクルを借りて、次に向かうのは前橋市浄水場。
Typologies of Industrial Buildings (The MIT Press)
- 作者:Becher, Bernd,Becher, Hilla
- 発売日: 2004/03/26
- メディア: ハードカバー