久しぶりの故郷にて

寝入るところで携帯が鳴った。父からの電話だった。伝えられた事象になんとも現実感が無いまま翌日朝イチでPCR検査を受けてから出社、取り急ぎの仕事を済ませて午後休。諸々の用意をして翌日故郷の駅に降り立った。前回の帰省から3年近く経っただろうか。あのとき止まってしまった私の中の母の面影のままの姿には、現実感がなかった。父はいつもどおりの口調と表情で私を出迎えてくれた。このご時世故に家族のみの小さな式は携わる方々のお仕事感よりもお人柄が伝わってきて、流れ作業になりがちな工程に意味が感じられるものになった。花とともに入れたのはおじいちゃんが開店した時に3着だけ作った、店名入りの藍染法被。そしてうちのお菓子をたくさん、「お母さんがパッケージを考えて文字を書いたからね」母が筆ペンで書いた商品名を使っているのだ。店内も母が和紙に書いた文字が並んでいる。そうか、これからもこうやって在り続けるのだなあ。



実家は母の物で溢れかえっていた。思えば子供の頃から母に連れられて、洋服屋やデパートへ買い物に出掛けることが多かった。子供の頃お洒落な母は自慢だった。子も自立して、歳を経ったなりの対処はされないままリビングの家具は新調され、食器が増え続け、本や雑誌が空間を埋め尽くし、飾り物があちらこちらに並んでいた。服は私が使っていた部屋をも侵食するほどだった。それでもこの数年、父はこっそりと断捨離をしてはいて、近所の古本屋や道具屋さん、母の友人に声を掛けて引き取ってもらうことにしてあるそうだ。アケビの籠バックや北欧の椅子や敷物、作家物の食器など、アンタ踊らされすぎじゃよ……な物も多く、欲しい人の手に届けば良いよね……。まあ、母のこんな欲望は私に見事に引き継がれ、私が私となるキッカケをつくったのは母だとハッキリと言える。旅行の写真も多く(いつの間にこんなに行ってたのか!)、行程表や各パンフにレシートなども挟んであるのは子供の頃の家族旅行から変わらない。今だったらブログを書くのだろうか(実はアカウントあったりして……)。



断捨離の中で父が発掘したアルバムには、生まれたばかりの私を抱いた母・その横に父・姉そして祖父母が共にいる写真があった。父方の祖父母の記憶はないけれど、古い日本映画に出てくるおじいさんとおばあさんそのもので、着物を着た祖母は飯田蝶子のようだった。



子供の頃の店の写真は懐かしかったけれど、嬉しかったのは大正時代の開店当日の写真!日本家屋な店舗は朝ドラの“たちばな”そのもので、開店祝いのチンドン屋さんがお囃子し、子供たちが嬉しそうに笑っている。いい写真だなー。



さらにこんな写真もあった。



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祖父が作ったケーキ・・・!バタークリームのデコレーション、なんとも繊細で美しい装飾。



手先が器用で、デザイン集で勉強をしていたそう。祖父は若い頃ハイカラな時代の横浜で和洋菓子の修行をしたものの関東大震災で地元に帰り、菓子屋を始めた。田舎だから当時珍しかったカステラやシュークリームなど洋菓子を出した。戦時中はスルメなどの食料を販売したり、先祖代々の反物などを売って凌いでいたようだ。その頃生まれた父は高校卒業後、鎌倉で修行をし和菓子の良さに触れ、実家に戻ったものの祖父と意見が合わなかったという。折りしも高度経済成長期、瓦葺きの木造家屋を鉄骨造に建て替えた店の2階で喫茶店を始めた。時代はバタークリームから生クリームに変わり、喫茶では地元産の果物をふんだんに載せたプリンアラモードが人気になった。
祖父が亡くなり、喫茶を辞めて跡を継いだ頃の店内の景色が私の原風景かもしれない。ショーケースには苺のショートケーキやシュークリームが並んでいた。しかし徐々に洋菓子の比重を下げて進物用の和菓子をメインにするようになった。地元デパートや駅へ卸したり、結婚式の引き出物の注文も大量に受けていた。その方向転換は家族を養うためなのだと今更ながら気づいた。私が社会人になって以降、卸などは辞めたのだ。



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母が嫁いだ頃の商店街の風景。一般家庭で生まれ育った母が忙しい菓子屋で働くことはとても大変だったはずだ。何も知らないのにいきなり店の主として菓子の説明をして売る側になったのだ。次第にショーウインドーの花を飾り、店内の調度品を揃え、菓子のパッケージを考えるなどイメージづくりをするようになった。雑誌や書籍で貪欲に情報を得るようになったのは、80年代以降の時代背景もあったかもしれないけれど、母なりに頑張っていたのだろう。その上、店で一日立ちっぱなしで働いてからは家事仕事が始まる。母は母で「家事も私がしっかりやらねば」というプライドがあったと思われた。子供であった私からすると、菓子づくりに追われる父とは夫婦というよりは仕事上の仲間のようだった。



今回の帰省で父は昔の話をしながら「こんなふうに長く話すのは初めてだねえ。本当は子供の頃にしてあげなきゃいけなかったけれど」と言った。父は不機嫌なことが多く家族とあまり話さなかったのは忙しく疲れていたからだろう。母は店と家の仕事を抱えた重荷が晩年に繋がったのかもしれない。そんなことをきちんと考えて掬い取ってあげることが出来ないままだった。好きなことをあれもこれもとし続けたんだから幸せだったよ、と父は言う。



東京で見つけた新しいお菓子を贈ると「こんなのが作りたいんだよねえ」と電話で言い、たまーに帰省すると新作が並んでいて、今もなお「斬新なお菓子を作りたい」が口癖で、今も休む間もなくお節句などの注文をこなしている父は根っからの職人なのだなあ。「家事はずっと自分でやっているし、料理も菓子作りと一緒で楽しいよ」そんな父と良いバランスで接していきたいし、母が静かに見守ることで今までにない新しいお菓子が完成する日を楽しみにしている。